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2014/12/20

軽んじてはいけない

 詩とはなにか、とは、気の遠くなるほど昔から現在まで、くりかえし問われつづけてきた命題であるが、その答えも、もちろんすべてを閲することなどとうてい不可能だけれども、詩人・批評家の数だけあるのではないか。

 世間一般の、現代詩なんて知らないよ、という人たちにとっては、俗な流行歌の歌詞でさえも「詩」という括りのなかに含まれるかも知れない。
 あるいは、行分けされてさえいれば、詩にみえるという人もいるだろう。

 あまり深いとはいえない、ありきたりな感慨や感情の吐露にすぎないみじかい言葉が、行分けで書かれていれば、詩だと思ってしまう。
 現代詩に触れたことがない、平凡な(わたしも平凡だが)詩を書かない人にとっては、それだけでなにか、崇高なものに接した感じがするのだろう、けれど。

 そうした行分けの作文みたいな、詩のようなものをみかけることがあるけれども、そこに書かれている言葉は、誰でもちょっとあたまを捻ってみれば書けてしまうのではなかろうか。
 もうすこし細かく言うと、アノニマスな存在が書いたのではないかと思うほど、個性がない、独自性がない。
 そして、意味にあふれていて、教科書でよんだむかしの詩人の作品の表層だけをなぞっている。
だから、免疫のない人には、詩であると認識されがちである。
 
 しかし、わたしがよみたい詩は、それらとはまるでちがう。
 その人にしか書けない表現、その人にしか書けない言葉、その背景にあるその人独自の感受性と美意識こそが、現代の詩を詩たらしめている、重要な要素だとわたしは思うのだ。

 わたしはインテリではないので、そういうかんたんな言い方しかできないけれども、誰でも書ける表現は、共同体の言語であって、情報のキャリアとしての言語にすぎない。ふだんの会話ならなんらの支障もないが、文学の言語は、それらとは一線を画すべき性質のものである。
 と言うと、文学者ないしは詩人の特権性を強調しているように誤解されるかも知れない。
 わたしは、凡庸な人間なので、そういう知的官僚的な詩人の詩がにがてである。
 市井の生活者である人が、詩に惹かれ、詩作に打ち込む、その成果が平易な詩であろうが「難解」であろうが、価値としては同列に並べるべきであろうと思っている。
 けっきょく、それらの詩から、ただ一行であったとしても、読者にとってたいせつな言葉が見いだされたなら、詩人にとっての光栄であろうと思うのだ。
 詩人賞、詩集賞といったものもたしかに必要ではあるけれども、じぶんにしか書けないことに目を留めてくれる読者が少数でもいたとしたら、かれらの気づきを軽んじてはいけない。
 

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