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2022/12/14

マイノリティであり続けるということ

12月ももう半ば、折り返しですね。

わたくし冬の電車通勤期間に移行しました。

ターミナル駅から郊外へ向かう電車に乗り換えるとき、いつも思うことがあります。

たぶんこれには絶対慣れないな、慣れてはいけないなと思うのですが、電車から大勢で降りてくる人の群れって、こわい。

どうしてぽちぽち乗ってくる人のことを考えないのかな。

会社へ向かうので急いでる?
理由になりません。

乗り遅れては困る?
それも理由になりません。ならば少し早く家を出てきてください。

とにかく多勢に無勢、といった風情が漂うのはほんとうに困ったものです。

勝ち馬に乗る、という言葉も浮かびます。

とかく人の集まるところって、導線を考えてないものですが、いったん地下鉄を降りてじえいあーるに乗り換えるような場合は特にそうです。

通路の角で内角側から曲がっていくと、人が向かってくるのは当然なのに意外というか、いやそうな顔をされる。

人の群れに逆らって…なにもそんな気はないのに、自然とそうなりませんか。

だから数の暴力って言いたくなるのよ。

数の力を、衆を恃んで勝ち馬に乗りたがる安定多数というのをきらうおしゃまですが、わたくしが端っこにいる詩の世界も、美術といいますかギャラリーの周辺にいる人たちにしても、社会のなかでは少数派に属するのかな。

だからかどうか、どちらの世界にも反骨の人が多い気がします…気がするっていうだけかも知れませんけど。

おらほの県のごり押しゼネコン大好き知事の県美術館移転の方針を撤回させたのは、ほかならぬその少数者とみられがちな美術界の人たち、市民の力です。
たとい集まったところで人数的には、役人からすれば意に介さない程度にすぎないと思いますが、それでも世論を動かすムーブメントになり得たのは幸いでした。

それでもまだ懲りない知事は、こんどは仙台圏の病院再編をぶちあげて、また上げた手を下ろすには至っていないです。
あんな人でもかわりの人材が出てこないのはまったくの不幸。独裁ですね。

まあ驕れる者はと申しますが、人生100年とかほざいているお大尽がまだ大手を振っている日本国です。
もうそんな時代ではない。
退職金も貰えず老後だけでなく、流行病に罹患したあとですら不安がつきまとう人が大多数になりつつある。

そういった潮目をよめない人が世のなかをおかしくしていく。権力者、老人の宿命ですな。

あっ話しがずれたか。ずれてないか。

そう、反骨精神の持ち主が生きいきと、みずからの表現の可能性だけを伸長すべく切磋琢磨する領域が、わたくしにとっても生きやすいと思えるのです。
あなたはどう思いますか?





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