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2015/03/17

最果タヒの「あとがき」

 最果タヒ『空が分裂する』(講談社)をよんだ。

 漫画家とのコラボによる、イラスト入りの詩の章は、なんだか集中できなくて、まだ深くよみ、掘り下げるに至っていないのが、われながらなさけない、けれども。

 この本の、二段組み四ページにもおよぶ、長いあとがきが、たいへん力と熱意にあふれた、いい文章なのである。正直なところ、書店に並んでいた第一詩集『グッドモーニング』をさきによんだほうが良かったかも知れないが、このあとがきに背中を押されて、こちらを手にとったのである。
 はなしが前後するけれど、最初によんだのは、『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)。三冊目の詩集になるだろうか、この著者の鋭敏で、既視感のない感覚と、それによって紡がれた詩のかずかずを、のめり込むようにしてよみおえた。たしかな手ごたえがあった。

 で、その長いあとがきのはなしに戻るけれども。
 なんで詩作品に沿って書かないのか、と言われると、すみません、とあたまを下げるしかない。
 首を垂れて、語っていきたい。

 
  
 (……)私は、感情がなんでもすばらしいなんて言わないけど、感情が美しく見えるのは「だれにもわからない」時だと思う。感情はただの乱れでしかないけど、その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ。

 
 このところ、環境の変化に馴染んでいけず、しばしば怒りやかなしみ、絶望感にとらわれがちだったわたし(おしゃま)にとって、「あとがき」のこの部分は身に沁みた。こんなに明快に、誰にも理解されない感情を、「乱れ」ている感情というものの一回性こそが美しいと言いきれるなんて。
 詩人のことばだと思う。たぶん、こんな文章を日本語によってあらわしたのは、最果さんがはじめてだろう。
 
 ふたたび抜粋して引用。

 誰にもわからない、わかってもらえない感情が、人の存在に唯一の意味をもたらしている。そして、だからこそ感情の結晶である作品が「わからない」と言われることは、ある種当然のことだった。

 私はコミュニケーションが苦手で、それは、他人が苦手なのではなくて、「気持ちを伝える」ということのために自分の中にある複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化して、既存の喜怒哀楽といった感情の定型に当てはめて行くことが不気味でたまらないからだった。

 「わかりあうことは、気持ちが悪い。」という、最果さんの独特の思考から生まれた詩を、わたしはけっして忌避したりしないし、むしろ以前にも書いたように、その人にしか書けない言葉であるがゆえに、そこに深いポエジを感じる。
 「複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化」して定型化して「解釈」しようとする、一般社会に於ける外部からの圧力に抗おうとする姿勢。これは、言葉ないしは詩の言語を否定し、解体し、腑分けしようとする、批判的勢力にたいしてきっぱりとNoを突きつける、じつはたいへん重要な詩の批評になりえていると言える。
 りりしく、頼もしい。すばらしい才能があらわれたものである。

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