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2016/12/27

暮れゆく2016年をふりかえって

早いもので、もうまもなく2016年もおしまいです。

ことし、おしゃまはなにかと活動的だったなあと、思いかえしています。

1月から2月にかけて、カロスギャラリーでの「Sha-gaku vol.10」への出展。
2月末には、白井明大さんを迎えての、キャンドルナイトポエトリーin星港夜。

5月には、東京で「詩について・対話篇」に出席してきました。
生まれてはじめての合評会という場でした。

7月には、このblogには書きませんでしたが、仙台ポエトリーフェス2016を、
8月には福島で、及川俊哉さん出演のイヴェント「よみがえりの風」をみてきました。

すこし間が空いて、10月には「百葉」11を発行。
これは毎年恒例のようになっていますが。

ただし、じぶんからなにかをする機会は、あまりなかったです。
友人がひらく集まりに出かけていくのが、多かったかも知れません。


ことしよんだ詩集も、やはり多くなかったですけれど。
印象にのこっている書名を列挙するに留めておきます。

 秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』
 
 山田亮太『オバマ・グーグル』
 
 最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 
 萩野なつみ『遠葬』



じつは、10月ごろに、一年先までのおおまかな予定を立ててしまいました。
仔細は順次、明かしていきますけれども、いくつか詩としゃしんにかんして、行動するつもりです。

来年は、さっそく1月下旬から、あるところであることをします。
これも全体が本決まりになったらお知らせしますが、じつは年末に急に決めたことなのです。

あいかわらず軽はずみな、おしゃまであります。
綱渡り的なところもあるにはあるのですけれども。

2016/12/16

あたりまえのこと、ですが

しばらく、投稿が途絶えていたけれども、なにもしていなかったわけではなく、ある集まりに招かれて朗読をしたり、通勤途中に詩作のメモをとったり、あまり捗っていないけれど詩やその周辺の本をよんだりしていました。

昼間は、たんなる一介の労働者として、心を砕いていたりするわけです。
そのあいだに、詩のことを考えたりするのはむつかしい。

それでも、現代社会にたいする懐疑心、これでいいんだろうかという気もちは、絶えずありますけれども、「若いやつは…」的な話しは、きょうは控えておきます。
説教みたいなことは、格好がわるいと信じていますので。

ただ、世相というか、大きな流れ、うねりのようなものについては、詩の言葉にかかわる者として、言わねばならないことがあるのです。
それは、許していただきたい。



わたしは、以前書いたようにtwitterはやっていないし、今後登録する予定もない。
SNSに本来なじめない性格であることも、以前述べたとおりだけれども、
実のところ、詩の友人のツイートでさえも、必要がなければめったにアクセスしない。

誤解をおそれずに言えば、誰のツイートにも、わたしが「これは読みたくなかったなあ」と思ってしまう投稿があるものである。
それが皆無にちかい人も、いるにはいるだろうが、それを証明するのはわたしの仕事ではないし、そもそも全世界のすべてのつぶやきをチェックするのは、無理でしょう。

それでも、ラジオなどでもいまはtwitterでメッセージを送るひとがかなり多いので(余談だが、わたしはラジオ大好きである)、不可避的に不特定多数の人のツイートを聞かされてしまうのが現実である。
他愛のない話題ならまだしも(たとい無駄話みたいなものだとしても)、時事的なつぶやきとなると、だいぶきな臭くなってきて、耳にするだけで不愉快にさせられることもしばしばである。
なかには明らかに悪意むき出し、ほとんど、あるいはぜんぶヘイトスピーチとしか思えないものもある。
たとい電波に乗らなくても、あちこちのwebサイトでtwitterのプラグインが貼られていたりして、それは放送局のものも例外ではないから、放送で無視されるものでも目にしてしまう場合だってある。

津田大介氏も、ある政治的に偏向している自称作家のツイートを問題視して、twitterの利用規約違反だから、アカウントを削除すべきだと主張されていたようである。既に周知のことではあるけれども。
と、書くと、お前こそ偏向してるじゃないかとか、左翼だとか中共の回者だとかいう連中もいるだろうが、いったいいまの日本に「左翼」なんていると思いますか。
そりゃあ、極端に右寄りに立っている人から見たら、ちょっとじぶんたちに批判的な人間はおしなべて左に見えるでしょう。
そう思うのは、お前が極左だからだ!と言わば言え、である。
わたしはぜんぜん政治的な人間ではないし、その手の活動に加わったこともない。
平和が好きだから言ってるだけです。
事を荒立てようとして息巻いている、頭に血がのぼっているみなさんはどうぞご勝手に、と受け流すしかない。
そんなに喧嘩や戦争が好きならば、じぶんから率先して行きなさい。
ただ、国家とか民族とか組織とか、そんなものの後ろ盾はすっぱり棄てて、なにものでもない個人として、単独で行くべきで、それができないからわたしはかれらを臆病者だと言うわけです。
衆を恃んでしか動けないようでは、ね。



なんだか、書いていてつまらなくなってきた。
こういう話題は、わたしの本分でもなんでもないのだけれど、詩人は炭鉱のカナリアであるべき、ということもあるので、あえてきついことも書いておいた。
ほんとうは、やはり現代の詩にかんして、書いたり行動したりするのが良いと思う。
もちろん、ひとりの単独者として。





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