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2023/10/03

現代詩は誰もいない昏い道、深みにはまり沈んでいく覚悟…なんだけど

きょうは、あるところで句会がありまして、会がおわったあとの空間で夜コーヒーをのんできたのでしたが。

わたし自身が落ち込んでいたこともあると思うのですが、そもそもさそわれた時にも気が乗らなかったので遠慮したのでありました。

それでアフタートークだけきいていて、なんとなくその理由がわかったのです。

まあ、ざっくり言うと、俳句、良くも悪くも言葉遊びだということ、それ以上でも以下でもないんだなということに気づいてしまったのかも知れません。

皆が言うほど、いいものじゃないぞ。
そもそも大勢の人がいいということには決まって疑ってかかる、あまのじゃくのわたくしですから。

それって、切実な表現ではないんだな。
言い回しの妙ばかりが問題にされて、心理および作者がどう思ったかは問題にされない。

わたしには合わない世界だなと、帰宅して思うのですが
どうせ理解なんかされないからと、いま編集画面をにらみつけているところでありまして。

対して…べつに二項対立でどうこうするつもりはないんだけど…
現代詩は正反対の位相にある文芸です。

よくもわるくも、というよりは
ネガの側面ばかりが喧伝されている。

詩を書いています、と言ったら
ポエム呼ばわりして潰しにかかるような輩がいた。
30年前の学生連中に理解せよというのがむだなことだが
そういうことはめっきり減ったけど、無理解以前に無関心という現実は
依然として横たわっている。

別にいいんだよ。
地上波TVのネタにされて嗤いものにされたらおしまいだから。

そういえば現代詩手帖2023年8月号に書いている人がいたけど、
むかしむかし、某国営放送にナイトジャーナルって番組があった。

曜日ごと日替わりで登場する専門家…いまwikipediaみるとなかなか錚々たる面々のなかにあって、ひとり浮いているのが火曜日の「詩人」実は当時の放送協会職員だった男でね。
わたしが記憶していた回は「なぜ女性詩人は元気なのか」というテーマ
今思うとなんで?と失笑せざるを得ない。
別に男性詩人が全員だめだとかいうわけないだろ。だから皮相的な見方だとわかる人にはわかるのだけれど、この職員詩人、司会者に話を振られると得意になって話すのだが、どうも言葉が浮ついて聞こえる。地に足がついてなくて、借り物の知識だけひけらかしてる様子が、当時のばかで未熟な文学部の学生だったわたしにもみてとれた。

インタビューした伊藤比呂美にやりこめられてタジタジとしてた情けない感じも思い出した。

深夜帯に、筑紫さんの番組に太刀打ちなんか当然できなくて1年でおわったらしい。
さもありなんという気分ですね。


そもそも自身の個人詩誌で詩を発表していて、感想をきかせてくださる方はほんの数人。まあゼロよりははるかに良いですけど、打率だなんて雑駁なたとえを許してもらえるなら、惨敗しかしたことがない。三振の山。なんだけど。

うーむ これ以上負け惜しみを書き綴るのもかなしい。涙がにじんでくる。

もう寝ることにします。

2023/08/05

すこし足踏み、のろのろですが

お暑うございます。
だいぶ体が慣れてきましたが、それにしても熱中症の危険度が高い毎日。
みなさま如何おすごしでしょうか。

第九がキテるとか来てないとか…いや来てないことはないので
ひきつづき気をつけて生活いたしましょう。

さて、先月の予定では
いまごろ百葉の20号目を編集している予定でしたが
大人でもなんでもない事情により、まったくの手つかずです。

そうこうしているうちに、気もちがめまぐるしく変わり
一時は19号を最後に発行を停止あるいは終了にしようかと
おーのーしておりました。

一週おいて、状況というか気分が良いほうにまわり
そこまで思いつめることはなくなりました。

ただ当初掲載しようと思っていた作品は
もっと推敲するか、引っ込めるか、あるいはぜんぶ乗せにするか(?)
今一度考えなおそうと思いますので
20号は、もしかすると来年になるかも知れません。

もともと書き上げていた作品を見返すと
なんとも生彩を欠くというか、貧しいものに思えるのです。
衰えなのか年齢相応なのか? そうは思いたくない。
まあなんらかの後退であることは確かでしょう。

もうすこし生きている実感、みたいなものを表現したい。
そう思ってもう一篇書いてみる気になってきました。

そのためまだ時間がかかりそうです。
お待ちいただいている方がどれほどいらっしゃるか不明ですが
気長に待っていただけますと幸いです。




2023/05/24

2年つかった詩作ノートに一区切り。まっさらな次の一行へ。

こんにちは。こんばんは。つつがなくおすごしでしたか。

こんな辺鄙なblogをみにきてくださるみなさまには、ご無沙汰にもほどがあると申し訳ない気持ちですが、正直なところ、noteやinstagramとのつかいわけでいささか悩んでいたことは確かです。

noteはほぼほぼ写真アカ、instagramはおしゃま画報はじめ絵とか写真とかカメラとかなんでもありで、いまいちばん頻繁に更新しています。

じゃあここはどうすんの…ということですが、
ひとまずいちばん陽の当たらない「詩」のことを中心に書けばいいかなと。

といっても、わたしはそんなに深く熱く詩について語る言葉があふれるほどでもない。

詩作のうえでの備忘録的なことで許してください。

さて、5月23日、さいきんほとんどわたしのホーム的な喫茶店となっている
喫茶frame/星空カフェにて、あたらしい詩作ノートの一ページ目に文字を記しました。

先にnoteに上げてしまったのですが…あちらにはその画像とテクストくらいしか詩のことは書かなくなっています。
どのみちどちらも検索には引っかからなくなるでしょうから…

前のノートは、数年前にダイソでまとめ買いしておいたリングノート、B6判。
もう2冊くらい使いきったことになりますかな。
2021年6月2日から約2年使いました。

なんつうか、のろい歩みの2年だったわね…詩作にかんしては。

その最初の一頁目に書いた詩は、のちに百葉に推敲を重ねて収録したものの一部です。
そのころは「まだ」すきな人のことをイメージして書いていたのよね。

バックナンバ通読してもらえたらはっきりどこからかわかるかも知れません。
誰とは言えませんけどね、web上ではもちろん。リアルに会って会話ができる方限定(笑)

もうわたいも夏には半世紀経過するもの。
れんあいとかもうええからみんな友だちでいておくれよ。

はい!脱線しました。転覆までする前に本題。



こんどのノートの序詞、いままでになくあそんでみました。

って言葉遊びね。当然ですが。

画像だけのっけておきます。ではまた。





2022/07/04

盛岡で多重露光してきたり

6月はなんにも書かなかったですね。ご無沙汰してます。おしゃまです。

6月中旬の日曜日、盛岡へ行ってまいりました。
そうです、原付二種で…

「20代の子がやるような」と友人に言われたりしましたが、深夜2時に仙台出発。
盛岡着9時半。
ことの顛末はnoteに書いたし、道すがらインスタにも写真上げてたのでここでは繰り返しませんが、行けども行けども着かない感がして。
いや岩手県だって広いわけですが、宮城県との県境越えるまででもすごく時間かかった。


それで、目的は「文フリ岩手」を見に行くことでした。
仙台の詩人さんおふたり出店されてましたし、以前寄稿してくださった岩手の方も別ジャンルの創作物をひっさげて参加されていました。

そして、数年ぶりの岩手旅行、盛岡訪問で、多重露光で撮りたいという思いがありました。
できればCONTAX Tも連れて行きたかったけど、連動距離計がずれて無限遠がでなくなっていたので(現在調整してもらっています、札幌で)、今回はオリンパスXAを久々に持っていったのでした。

現像したものをみると、こちらもやや無限遠があまいかな? と思ったけど
多重露光は、ずれまくりながらも1枚は見れるものが撮れた…自画自賛みたいだけどほんの1,2枚ですからね。



縦位置と横位置がクロスしてますが、おしゃまの多重露光にはつきものです(汗)

この手の写真をもっと撮りたいと思ったし、多重露光の写真だけ展示してみたいなとも思ったのでした。



そう「百葉」18・19号とも表紙写真は多重露光でしたね。
またぽつぽつ、あたらしく詩のノートに書きつけはじめていますが、例によって一朝一夕には書けそうにありません。

10号くらいまでは推敲と言ってもあっさりしたものでしたが、ここ数年はむしろ推敲に時間をかけるようになりました。
詩の言葉を練っているとね、それも時間と手間をかけていると、いろいろ思いもかけない思いつきやたくらみ、さらには「降って」くるものがあって、苦しいときもあるもののそこを抜ければ書き上げたときの嬉しさが数倍にもなるのです。

若い頃にはわからなかった。
長く書き続けてきてようやくわかってきた。
詩は青春の文学だなんて、夭折した詩人の伝説を鵜呑みにして甘ったれたことを言ってはいけない。
だからほんとうにいい素質をもっている若い詩人さんには、ずっと書いて書いてほしいと思う。さっさとやめてしまうようでは、若気の至りと斬って捨てられるぞ。



2022/01/18

2月3日「襲来」最果タヒ展@仙台 


まずはこれをご覧ください。
きのう貰ってきたものですが…

そうです、最果タヒ展が仙台にやってくるのです。
2月3日から27日まで、仙台パルコで開催です。

そういえば、最近の詩集はよんでいませんね。
別に愛想をつくしたとか、飽きたとかではなく
とにかく多作だし、追いかけてよむのもたいへんというか。

雲の上の人の書いたものを追うより、いまじぶんに書けるものを
手探りで書くことのほうが、おしゃまにとっては先だという気がする。
なにしろ、こっちは書いても配ってもまったく壱円にもならないのですから
よんでみてつまらなかったらポイされる恐れなきにしもあらず、
そういう切実な位相にいるのです。

別にどっちがどうということを言いたいわけじゃなくて
すこしでもいいものを読者に差し出したいという思いは同じだと思うのです。

だから、まあ、見にいくとは思います。
詩人という肩書が、仙台の一般人にどれだけアピールするか未知数ですが。
TVで紹介されたりCMも打ってくるだろうから物珍しさで集まりますかね。
県美術館に泰西の名画が来るときと同じ。
ぜんぜん縁のない人たちも押し寄せるか。

それもいいとは思いますが、そこから深みにはまる人はまれな気が。

困るのは世間一般にはびこる有名病か。
有名かどうかだけがだいじなひとたちいるでしょう。
かれらに篩にかけられるのはわたしのような無名人です。
別にいいけど。
本質とは関係ない。

この文章こそ本質的な場所からはとおいですね。
申し訳ないです。



 

2022/01/12

詩が動きだす、瞬間

みなさま、つつがなくおすごしでしょうか。

2022年も、おしゃま色に! をよろしくお願いします。


*   *   *

ええっと、先にnoteにリポートを上げてしまったのですが、
大晦日は純喫茶・星港夜でのどうやら最後の年越し珈琲。

それから仕事始めまで、ぼやぼやして過ごしました。

どんだけ眠ったでしょうかね。。。

そのあとすぐ成人の日の連休があったりして、なかなか電源が入らない日々でした。

そお、電源といえば、
その連休中にデスクトップPCの電源ユニットを交換しました。
もともと400Wがついていたのですが、昨年中古のHDDを入れたら
いろいろあって動作が不安定になり、ついには故障。

しばらく放置していましたが、Windows10の再インストールでふっかつしまして、
写真が入っているHDDと、さらにもう一個ドライブを増設しても余裕があるくらいの出力が欲しく、650Wに強化しました。

もともと友人が組んでくれて格安で購入したものです。
これで百葉やおしゃま画報の制作もしたいので、ほかにも(ごにょごにょ)しましたが
まだプリンタがドライバ古すぎてそもそもインストールできないし、
office2007(うちにインストールディスクがあるのはこの旧いもの)も入れてない。

例によってまた室内から発掘しなければなりませぬ。


**


そんなだったので、元日から詩作に打ち込むわけでもなく、
おそいスタートではありました。
きのうあたりからようやく、昨年ノートに書いていた種を育てるようなかたちで
本年の詩作がはじまりました。

また以前のおしゃまの詩みたいな、重めの内容ではありますけれども。

だいぶ前に書いたはずですが、おしゃまの詩作ノートは、ここ5,6年くらいは
A5判のリングノートです。
水玉ドット大好きなおしゃまさんですから、表紙もそういうのをえらんで買っていたのですが、いっときの流行がおわったのか? 最近どこにも売ってないですね。
ある集まりで「枯渇してきたので探してください」とか言ってたりもしたのですが
その後ダイソでこんな感じのを売ってた時期があり、見つけたらまとめ買いして
現在6冊未使用でストックしてありす。
あと数年はもつんではないかな。
この表紙も見なくなりました。

話しがそれましたが、ああでもないこうでもないと
ノートに書きつけ書き直しするのは、充実感があります。
詩にいたる病い、憑かれたものの宿命でしょうけれど、
詩がまだ見えざる最後の一行に向かって動きはじめる時というのは
いいものです。



2021/03/08

『百葉』18号に向けて


みなさま、お元気でいらっしゃいますか。
おしゃまです。

電車通勤に戻ってふた月くらいになるでしょうか。
ようやく言葉が戻ってきた感じがします。

2月上旬から、詩作ノートの上で練っていた、
まだ未成というべき言葉の群れが
けさの地下鉄の車内でふと浮かんだ2行をキイにして
動きはじめました。

A5判のノートの上で5ページ
だいたい1ページ2段にして書いているから
一進一退、おなじようなフレーズを前にだしたりひっこめたり…
とはいえ、だいぶかたちがみえてきました。

まだ書き上げたわけでもないのですが
次の「百葉」、次で18号になるわけですが
その編集もそろそろかな…と思いはじめています。

まずは昨夏に書いてまだ合評会でしか公開していない詩があり
それにいま推敲中の詩、そして…?

表紙の写真も、どれにするか案がひとつふたつ。


そうそう、きのう市内のある河原で、CONTAX139Qと三脚持参で
多重露光のテストをしてきました。

また期限切れフィルム使用で。

今週末には現像してきたいなあ。

2020/10/18

なんとなく、そっと置くように

みなさま、だいぶ冷え込む日もでてきましたが
如何おすごしでしょうか。

最近ほそぼそとしか書けていないので
なんとなく気が引けるのですが、きょうは、作品のタイトルの話しです。

詩に限りません。
絵でも、散文でも、あらゆる創作物につける題についてです。

先日、ある写真中心の展示を見に行ったとき、
一枚の絵に、いわゆるレンズ付きフィルムが描かれていました。

作者の方がいらした時だったので、そこに添えられたタイトルについて
どういう意味なのか、推測をまじえて語ったのですが
答えは「なんとなく…特に意味はない」でした。

創作にたいするそういう姿勢、いってみれば
じぶんが一度作ったものから一定の距離を置く、
そういうスタンスもあるのだなと
かえりみちに反芻するように考えていました。

わたくしおしゃまは。一度個人詩誌で発表した詩については
数か月もすると「なにを書いたんだっけ」と思うこともじつはあるのですが
いつも詩のタイトルをつけるときには、悩みに悩みます。

ときどき、先にタイトルに使いたい言葉が浮かんで
それに向かって書いていくこともありますが
おおくは後回しにしてしまいがちです。

取って付けたようなものはいやですし、
苦し紛れに詩のなかの言葉をもってくるのにも抵抗がある。

そんな自意識と葛藤の末に題をつけて、あとは
読者のみなさまに委ねて、じぶんはさっと裏手に隠れてしまう。

そういう姿勢に後ろめたさを感じるので
上に記したような、あっさり、さばさばとしてこだわりのない在り方に
一種の爽やかさをおぼえるのです。


2020/08/18

「ぼく」は気恥ずかしい。わたしが「わたし」という理由

みなさま、お変わりありませんでしょうか。
まいにち暑いですね。ほんと東京2020がつ・ぶ・れ・て・良かった…
新型ウィルスにはあいかわらず困惑させられていますが。


きょうは小ネタだと思ってください。

じっさいに多くを語れるほど能弁じゃないですから。


おしゃまは、おしゃまを名乗っているにもかかわらず男子なのですが
もうずっと前から 一人称は「わたし」「わたくし」「あたし」等で
通してきました。

詩のなかでも、一人称の「ぼく」「僕」はもう使わない、使えなくなって久しいです。


とくに「ぼくたち」などはもう恥ずかしくってだめです。
「ぼくたち」のあとには、どういうわけか
「広告ダメダメ三匹!」がくっついてきて、思わずコーヒー噴きそうになります。


という理由よりかは、じぶんの詩のなかで「ぼく」と書くと
一種のヒロイズム、男性性の強調、女性を従属的な立場に置く、というマイナスイメージがついてまわります。

最近の若い人の詩ではどうか、不明ではありますが、いわゆる現代詩が熱く盛んでもっともよまれていたという時代の空気として、男性中心主義というのが主体だったせいもあると思います。

もっとも、「ぼく」と書く詩人さんすべてそうであるとは思っていません。

もっとフラットな「ぼく」の書き方もあるとは思います。
具体的な例を思いつかないのがもどかしいですけれど。

過去作においては、まだそこまで意識的でなかったせいで
使ってしまった例もあります。

ただ、個人的におしゃまにはもう使えない言葉ではあるのです。




2020/03/30

花の命は(詩としゃしんのはなし)

みなさま、お元気でいらっしゃるでしょうか。
ほんとうに、ほんとうにお元気でしょうか。

とおくにいる友人知人、わりと近くにいるつもりの友人たち、
そうでない人たちであっても、この災禍のなかで
生き抜いてもらいたいと、おしゃまは思っています。



きょうから、詩作ノートをあたらしいものに切り替えました。

2年ほど使って、あと数ページを残すところとなっていたものに
書きつけていた言葉が、次の行へとすすんでいかなくなって
それらの推敲は今後も続けますが、ただでさえ気のふさぐこのご時勢、
思い切ってぱしっと次の一冊へと移行させました。

いつも、あたらしいノートの最初のページには
扉詩のような言葉を書いているのです。
友人の白井さんにならって、そうするようになったのですが
そこから『百葉』に掲載した詩もあったりしました。
今後も、発表する詩のどこかに含まれたりすることでしょう。

ちなみに、おしゃまはA5かB6判のリングノートを
横にして縦罫にして、縦書きしています。

**

こんな昏い世のなかですが、いずれ(近いか遠いかは知らないけど)
死ぬのであれば、いまのうちにやりたいことを、
できればたのしいことをしておきたいと思って、
きょう、また中古カメラを一台買いました。

といっても、レンズに曇りがあるということで
数千円しかしない(ちゃんとしたものなら万券要るはず)、
レシートにも「掘り出し物」としか品名がないものでした。


昭和30年ごろのコニカⅡ型です。
いくつかバリエーションがあるようですが、おしゃまのところに来たのは
ヘキサノン50㎜f2.8の付いているものです。


距離計連動式、レンジファインダーのカメラですね。
お店で手にとらせてもらい説明をきいたのですが
おしゃまの知っている(あまり知らないけどね)どんなカメラとも違う
独特の操作系で…とくに鏡筒まわり。
まるでお作法を学んでいるような気分でした。

スローシャッターも調子が良くないとききましたが、
帰宅して裏蓋をあけ、シャッター速度を変えてテストしましたが
スローガバナーがまったく効いてないとかじゃなく、
この値段ならおしゃま的には充分いける気がしました。

ひとまず期限切れでないフィルムを詰めて試し撮りしてみます。
(2月に20本くらいも!ある方から期限切れを寄付していただきましたが
 それをこのカメラで使うのはまたいずれ…)
      それにしてもいまカメラ2台に撮りかけのフィルムが入っとります。
      だいぶカメラの断捨離をしたとはいえ、これでだいじょうぶかな?


ところでこのカメラ、アイレットというものがない。
ストラップの取付部、タブのような突起がない。
そのためカメラケーズが必須なのですが
この個体にはちゃんと附属しておりました。
ご丁寧に、革のストラップにはレンズフードのケーズも通してありましたが
縦位置撮影のとき、おしゃまの帽子に当たってじゃまなので外しました。


広角~広角寄りの焦点距離のカメラを多く使ってきたために、
ひさびさの50㎜レンズの画角に慣れるまで、ちと時間がかかるかもです。
だいたい両目からまっすぐ線を伸ばしていった先がフレームなのかなと思います。
人間の眼でみた印象に近いという「標準」レンズです。
ファインダーをのぞきながらあるいてかえってきて、そこは納得できました。





仙台では史上最速で桜が開花したものの、
文字通り花を見るだけで宴席なんかとんでもない状況ですが
それが本来の桜をめでる態度なんじゃないかなあとも思うのです…桜を見るかいなんてトンデモナイ


「花の命はみじかくて 苦しきことのみ多かりき」とは
林芙美子の放浪記の扉詩だったように記憶していますが
いつこの苦しい時期を乗り切れるのでしょうか…





2020/02/08

夜更かしして

先日、また詩を一篇書きました。

11月下旬くらいから、またあーでもないこーでもないと
じぶんの心のうちを探るようにして言葉をつまみあげては
ノートに書きつけて…それはいつも通りなのです、が。

どういう帰結になるか、書き終える日までわからなかったのは事実です。
まあそれもいつもかな?

ざっくり申し上げて、こんどの詩のテーマは「不眠」でした。
でした、と過去形ないしはひとごとのように流しましたが、
これも最後の行が導かれるまで、じぶんで書いていながら
気づいていなかった。

四捨五入すれば50になんなんとする中年がなにを、と笑われそうな気もしますが
中二病的なモチーフも含まれているような気もする…

じっさいのところ、おしゃまはふだんは寝つきは良いのです。
とくに枕もとに詩のノートと万年筆を置いておくと
気もちが落ち着くのです。
たといなにも書けないとしても。

週末に夜更かししても、時間帯がずれるだけで
結局眠ってしまいますね。

ちなみにいま土曜日の25時。

そろそろねむりたい気分ですが…


2019/10/30

次の「百葉」は冬発行予定 編集開始します

写真のことばかりつづけて投稿してきましたが、
ちゃんと詩も書いておりました。

きょう、夏ごろから練りに練っていた詩を書き終えました。
ほぼこの一篇にかかりっきりでしたが、
ノートの日付をみたら、その最初は6月でした。
9月ぐらいだったつもりでしたが、もっと前だったのです。

もうまもなく11月ですものね。
途中でさすがに「夏」の一文字は置き換えましたが、
それにしても。

また書いた詩が3つになりましたので、
またも冷え冷えとした詩ばかりで、冬発行予定の
「百葉」の編集を始めたいと思います。

まだ一篇はタイトルすら決めてなかった、、、

表紙の写真もえらんでないですね。



2018/09/11

冬の詩を、いまから書いていたり

こちらでは、ずいぶんとご無沙汰してます。

めちゃくちゃ暑かった夏も、仙台で37度の日をピークに
あとは涼しくなるばっかじゃない? と思ってからは
暑熱馴化、っていうらしいですが、例年よりかは
からだが慣れてしまって楽でした。

汗だらだらかいて、やっとの思いで
のそのそ歩いていた去年とか嘘のよう……

秋雨先取りみたいに9月を迎えて、もう中旬。
ようやく秋らしくなったなと思いませんか。



さて。
そんなさなかに、おしゃまは冬の詩を書いてました。

三篇できたら、百葉の……つぎは14号でしたね、、、に
掲載予定です。
そう、12月ごろには発行したいです。
といいますか、そのつもりで書いております。

ことしも二冊発行できそうな。
いつからかペースが上がってきました。
年一冊のときは、だいぶ低調な作品も多かったように思います。

2016年秋からつかってきた、いまの詩のノート、
当然ながらいつも鞄に入れてもちあるいているものですが
もうすぐいっぱいになる勢いです。
もうまっさらなあたらしいノートも鞄に入れてあります。
おなじノートを二冊買っておいて、良かったです。
(表紙はドット柄です)
もう同じものはメーカーにもないようですので。



福間健二さんの詩集『会いたい人』(思潮社)を
しばらくもちあるいてよんでいましたら、
〈意味はわからなくても、リズムをもらった!〉
という一行があるのに行き当たり、
(もうなんどもよみ返していたのに、、、汗)
福間さんの詩の「見えないリズム」にはじめて気づきました。

見えないリズム、とは
田村隆一の詩にあったフレーズだと記憶していますが。
弱小詩人のおしゃまだって、田村さんの詩にしびれていた頃もあったんですよ!

ちと話しがそれましたが、意味はわからなくても……という詩行に
福間さんの詩をよみとくヒントがあるように思われたのです。

意味もわからなければ「見えないリズム」すらない
「難解な「現代詩」を嫌気しながらも接近を試みていたころから
思えばもうふた昔ほども経過してしまいました。

いろんな詩、いろんな詩人がいるのだから
そんな十把ひとからげにしなくてもよかったのに、と
いまにして思うおしゃまだったりします。







2017/10/18

手放していくもの

またしても、しばらく間を空けてしまいました。
おしゃまは、生きております。

気落ちして、衰弱していることもしばしば、ですけれども。
浮き沈みが大きいことは、否定できないです。

詩作のほうは、一進一退、でしょうか、ねえ……
ともかくも、毎日ノートかGoogleドキュメントか、どちらかは開くようにしています。
案外ちかいうちに、一篇書き上げるかも知れない、そんな予感もあります。

もうずっと、『百葉』という個人詩誌で詩を発表してきたのですが、
いったん書き終えた詩にかんして、あまり執着がなくなってきた気がいたします。
ときどき、じぶん用の「みほん」をひらいてみないと、
過去作の内容など、よく覚えていないことがありまして。

当初にくらべたら、過度な思い入れのようなものも薄くなり、
書いているさいちゅうでも、割と客観的にみているように思います。

なんでかな?と考えて、思い当たったことがひとつ。

3篇くらい詩ができて、詩誌を発行して発表するたびに、
じぶん自身のなかのもやもやとした思い、書きながら考えていた
いろんな雑念あるいは煩脳を、手放していくことが
できるようになったのかな……と。

話すことは放すこと、という言葉もあるようですからね。

おしゃまは凡俗な人間で、ふつうだったら取るに足らないような
ささいなことで怒ったり、世をはかなんだり、していますので、
それが、抽象化しようと努力はしているものの、
詩にも表れがちなのです。
おしゃまの詩は暗いとか、うしろ向きだとか思う方も多いかと思いますが、
それはふだんのわたしが実際にそうして生きているからで、
どうあがいても拭いきれないものです。

そんななかでも、気分がすっと晴れたりすることがある。
そこを表現したいと、考えてはいるのです、けれど。

底の浅い共感とか、同情とか、前向きに生きよう的なメッセージ性ばかり
前面に押し出した作文を詩だと思っている人とは、
正反対のことを書こうとしているのを、まさか表立って
発表媒体に付記するわけにはいかないので、
こんな場所でこっそりと、ちいさな声で言っておくにとどめます。

2017/05/08

環水平アークと、本と、誰にでもあること


5月になりました。
連休中、ちょっと県北のほうへ外出したさいに、水平方向にのびる、虹のようなものをみました。

環水平アーク、というのだそうですね。
はじめて遭遇しました。

きれいな、というよりは、ふしぎな、と言ったほうが
そのときの気分には近いかなと思います。

しゃしんだけ撮って、それからしばらく気にも留めずにいましたが。
めずらしいので、アップしておきます。



さいきんは、よみたい詩集、よみたい本がなかなか見あたらず、
読書からはほとんど遠ざかっています。

基本的に、仙台で入手できる本くらいしか買わなくなっています。
いまはネットでも本がいくらでも買えるので、こんな感覚はアナクロなのでしょうけど、
手にとって、感触を確かめて、すこし内容もみてえらぼうとすると、
そういうことになりがちです。

小説も、ほぼよまなくなって久しいので、
選択肢はせまくなっていますね。

読書のことが話題としてのぼらない、
きいたとしても、おどろおどろしい、売らんかな主義の横溢する
たくさん売れる本の話しばかりの世のなかになってしまったので、
さびしい思いばかりが募ります。

良質の本が、生活のちかくにあった時代を、
多少は知っているつもりなのですが、
この歳になると、むかし語りになってしまいますね、、、



詩作は、いつもとぼとぼ、のろのろ書き継いでいくのが常になり、
内容も変化にとぼしいのが実際のところです。

おしゃまの日常なんて、つまらないものですし。
朝起きて、食べて、仕事に出かけ、つかれてかえってきてはまた眠る。
こう要約してみると、誰にでもあること、なのでしょうか。

わたし個人のことを書きながらも、
じつは誰にでもある普遍的なことに通じていればいいなと、
すこしでもそこに届けばいいなと、思っています、けれども、
なかなかむつかしいものですね。

言葉で書き得ることが乏しいから、
写真という表現に、じぶんの詩作にないものと、それとは逆にある
共通の思いを託してやまないのかも知れません。

そんなことを、あらためて確認のために書きとめておきます。




2016/08/30

また、一行目から

世間を騒がせた迷走台風も、仙台附近には上陸せずに行ってしまったようです。
あまり大きな被害がないまま、消えてほしいものですが。

11号に載せるわたくしの詩は、3篇できました。
詩の推敲は、ノートに万年筆(Centropen RUBYという、チェコ製のプラスティックのもの)でああでもない、こうでもないとするのがここ数年の習慣ですが、それでも煮え切らないときは、wordで清書も兼ねてやってしまいます。今回も、そうでした。

脱稿して、またゼロから一行目を書きださなければいけない、ある意味自身をリセットして、心のアンテナを澄ませて臨む地点に戻ったわけですが、
ふと、メモ帳に書いたわずかな断片を目にして、「調べよりも意味が先に立っているなあ」と感じ、
すこしつまらない気もちになったのです。

おしゃまは、音楽もききますが、
それもきわめてマイナーな人のでも、心の琴線に触れればくりかえし愛聴するのですが、
そのおおくは、歌詞がなかったり、外国語の歌詞がついていたりします。
日本語の意味から解放されているのが、快いのです。

写真だったら、理屈よりも先に直観で好き嫌いはわかるものです。
批評的な言葉は、あとからついてきます。
最初から重い意味付けをされている写真は、正直きついです。
抽象、具象を問わず、自由な見かたを許容してくれる写真の方が、より印象は深くなると思います。

だのに、じぶんが書いているものにかんしては、正反対なのです。
ほんとうの意味で、自由闊達に書けているとはいいがたい。
なにか、社会的な位置のようなものに、縛られているのではないかとも考えます。
詩作だけでなく、創作するときには自身をちいさく限定せず、解放してやる必要があるのではないかと。

2016/08/17

百葉11の準備

8月半ばになり、ようやく秋の気配もただよってきたとはいえ、まだ30度越えの日もあり、
重いからだをなんとか前に押し出しながらあるいている、おしゃまです。

お盆休みのあいだ、知っている人には誰にも会わず、ひきこもりみたいにして過ごしました。

詩作は、一進一退といったところで、
もうすこしで脱稿かと思いきや、まだだめ、もっと練り直せという、じぶん自身のうちでのせめぎあいがつづいています。
ときにはげしく虚脱するのは、体力の問題だけではない気がします。

ひさびさに(また、怠けていました)詩の読書を再開して、
辻征夫さんの『ゴーシュの肖像』(書肆山田)の文章に尻をたたかれたりしています。
この方の、詩人としての生きかた、創作への並々ならぬ力の入れようには、
わたしのような弱小詩人は、到底かなうものではありません。
べつに、勝ち負けや優劣を競うものでもないでしょうけれども。
学ぶべきものはおおくあります。

そんななか、次の百葉、11号の編集をはじめています。
今回からは、コピー屋さんにデータ入稿できるようにする予定です。
また、昨年10号の節目をすぎたこともあり、すこしかわったこともしたいと考えています。
まあ、詩誌としては、よそでもふつうに行っていることですが。

衆を恃まず、なにごとにもひとりで立ち向かうことも大事だけれど、
おしゃまのような凡人には、ひとりでものごとに挑むのは、つねに後退戦みたいなものになりがちではあります。
過去に書いたものをみても、そういう傾向はつよいと誰にもわかることでしょう。
まえにも書いたかも知れませんが、「ひとりの小さな手 なにもできないけど……」云々というあの唱歌(題名をすでにおぼえていない。どうでもいいということか)がわたしはきらいです。
ひとりじゃなにもできないけれど、大人数ならなんでもできる、そんなのは民主主義が死に体で、多数決の原理だけが生きているどこかの国情をも想起させるのです。
ちょっと話がずれましたが、数の横暴を振りまわすための集団はいやだけれど、友好のための連帯までは否定しないということです。
詩人の連帯なんて、ささやかなものですし。

まあ、11号ができたら、おしゃまが言ってたのはこういうことか、と思いだしたり、思い出さなかったりしていただけるとうれしいです。
冬まえまでには配布できるようにする予定です。 



2016/06/06

合評会という「場」

もう、先月のことになってしまいましたが。
5月28日の土曜日に、「詩について・対話篇」という合評会に参加すべく、
東京へ行ってまいりました。

朝8時に仙台を発って、13時に東京駅八重洲通りのバス停に降り立ちますと、
詩の会の主催者で、友人の古溝さんが待っていてくださいました。

一緒にお昼を食べに行った神保町で、三省堂書店の現代詩フェアのコーナーを見たり、
そのあと喫茶店で(あれだけ広く遠い都会で、お気に入りの店を見つけるのは至難だなと思いつつ)
そのフェアのブックリストについて語り合ったりして、
17時前に、会場の書肆逆光(八丁堀)に戻りました。

当日の参加者は6名。
それぞれ一篇ずつ提出した詩を、ひとつずつ黙読し、
しかるのちに、その作品について語り合う、という、あっさり言えばそういう会です。

こういう会に顔を出すのは、じつは、おしゃまは初めてでした。
もっと早く、こういった場に出てくるべきだったんじゃないかと、
投稿をやめて10年ちかくになるわたしは考えたのでした。

大げさかも知れませんが、
おしゃまにとっては、洗礼にちかい経験でした。
東北の地で、ずっとひとりで書いてきたわたしには、
個人詩誌をつくって、手渡していく行為がほとんど唯一の発表手段ですが、
その過程で、よんだ方からかえってくる反応は、
好意的なものか、無反応かのいずれか、それだけでした。
どちらかと言えば、後者のほうが多いわけだけれども、
なにも言われないので、どうしても前者の声が大きいように誤解してしまう。

今回、わたくしが提出した詩について、
「じぶんのために書いているか、読者のためか」という問いかけがありました。
みえない読者の存在を、わすれてしまっていたおしゃまの詩は、
ひとりよがりな面があったことを、痛感いたしました。

「書きたいことを書きたいように書けること、
 それは強みでもあり弱みでもある、
 ぎりぎりのところだと思う」という批評も受けました。
こういった言葉に鍛えられ、励まされてこそ、
現代の詩はまっすぐのびていくことができるのでしょう。

おしゃまには、それが新鮮でした。
とてもよい機会だったと、
わざわざこの会のためだけに、出掛けていって良かったと思います。

仙台でも、次の「ちいさな詩の朗読会」の前に、
わたくしなりの詩話会的なものをひらきたいと考えていますが、
まずは会のあり方、構成について熟慮すべきでしょう。
すぐというわけにはいきますまい。
もしかしたら年を越すかも知れませんが。

東京でお会いした、すばらしい詩人のみなさま、
ありがとうございました。

また機会をみつけて参加したいものです。



2016/05/20

自在であること、自由であること

2ヶ月も放置してしまいましたが、おしゃまは元気です。

このあいだに、朗読会のあと、半年もねちねちと直しを入れていた詩が一篇、できました。
なんという牛の歩みでしょう。

今月末に、ちょっと詩の会で、とおくの友人に会ってきますので、
なにもできてないというわけには、いかない。
まあ、4月下旬あたりには、ほぼ根幹は書きあげていたのですけれども。

* * * * *

しばらく前に、火星の庭で買った詩集、
秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』を、おくればせながらよんで、
詩の自由ということを考えていました。

詩はこんなにも自由に、
発想も表現も、自在であっていいのだよなと。

すこしでも詩をよみ慣れているひとなら、
心得ていることでしょうか。
しかし、わたくし、おしゃまにかんして言うと、
どれだけじぶんで狭い枠を、みずからの周囲に立ててしまっているかと、
そんな反省が浮かんでくるのです。

世のなかの、詩をよむのも、書くのにも慣れていない、
学校で習ったようなものしか思い浮かばないひとたちにとっては、
この自在さは、ひょっとすると、
意外性に富んでいて、拒否反応が出るかも知れないなとも、
感じるほどですが、
本来、現代の詩はこういう自由さと、奔放というかのびやかな感覚をもっていいのだと、
わたしは思うのです。

過去に書いたことだと思うので、くりかえしませんが、
型にはまった書法と発想法では、
けっして前には進めない。
このベテランでありながら、おなじ位置に立っていることをよしとしない
真の詩人らしさを身をもって体現している秋さんのようなひとがいることを、
わたしも含めて、識るべきだと思うし、
こういう詩がよめた幸せ、みたいなものも
より深く反芻することがだいじだと思った次第です。




2016/02/01

Sha-gaku vol.10 に参加します

 こんどは、公募写真展に作品を出すことになったおしゃまです。
 
 昨年の「ちいさな詩の朗読会 第一章」以降、表立っての活動はしていなかったけれど、じつは写真展の準備をしていたのです。
 むろん、個展をひらくほどのものは、なんにも持ちあわせがないのですが、作品数5点、ギャラリーの壁面2面を借りての発表でしたら、なんとかできないことはない、と思ったのです。

 そのあいだ、多忙と気ぜわしさのためか、もしくは怠惰のためもあるとは思いますが、詩のほうは一篇もできていません。
 あまり詳しくは言えないけれど、気が荒れていたというか……荒れている、とは、肌荒れのようなものだと思っていただくとわかりやすい(?)だろうか。

 今回の写真にかんして、すこし能書きふうなことを述べるとすれば、ある偶然で変わったエフェクトがかかってしまった銀塩写真(フィルムですね)のプリントをみて、なにかの萌芽のような、いままでわたしが撮ってきた写真とはまた別の世界が急にひらけてきたような気がしたのです。
 茫洋とした、絵画的にも見えるけれども、まぎれもなく写真であるという。
 偶然性、一回性の芸術であり、作為が必ずしも成果を生まないジャンルである点も、好ましく思っている。
 反面、今回展示する写真のようなものが、もう写すことができないのではないかという淋しさ、危惧も同時に感じている。
 
 詩はいちど書きおえたら、作者の手をはなれて、二度と同じものは書けないと思っている。
 たぶん、それでいいのだし、自己模倣のスパイラルに陥っては、読み手にとってもたいくつであろう(あるいはそれが不安で、現代詩を遠ざける人もいるだろうけど)。
 今後も絵画的な、夢でみたことがあるような写真を撮りたいという方向性はできたけれども、同じ手法をただくりかえしても、同様の結果は生まれないかも知れない。
 そんな共通項があるように思われた。

 写真展の詳細は、以下のサイトをごらんください。
http://www.kalos-gallery.com/exhibition/sha-gaku_vol10.html

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