2ヶ月も放置してしまいましたが、おしゃまは元気です。
このあいだに、朗読会のあと、半年もねちねちと直しを入れていた詩が一篇、できました。
なんという牛の歩みでしょう。
今月末に、ちょっと詩の会で、とおくの友人に会ってきますので、
なにもできてないというわけには、いかない。
まあ、4月下旬あたりには、ほぼ根幹は書きあげていたのですけれども。
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しばらく前に、火星の庭で買った詩集、
秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』を、おくればせながらよんで、
詩の自由ということを考えていました。
詩はこんなにも自由に、
発想も表現も、自在であっていいのだよなと。
すこしでも詩をよみ慣れているひとなら、
心得ていることでしょうか。
しかし、わたくし、おしゃまにかんして言うと、
どれだけじぶんで狭い枠を、みずからの周囲に立ててしまっているかと、
そんな反省が浮かんでくるのです。
世のなかの、詩をよむのも、書くのにも慣れていない、
学校で習ったようなものしか思い浮かばないひとたちにとっては、
この自在さは、ひょっとすると、
意外性に富んでいて、拒否反応が出るかも知れないなとも、
感じるほどですが、
本来、現代の詩はこういう自由さと、奔放というかのびやかな感覚をもっていいのだと、
わたしは思うのです。
過去に書いたことだと思うので、くりかえしませんが、
型にはまった書法と発想法では、
けっして前には進めない。
このベテランでありながら、おなじ位置に立っていることをよしとしない
真の詩人らしさを身をもって体現している秋さんのようなひとがいることを、
わたしも含めて、識るべきだと思うし、
こういう詩がよめた幸せ、みたいなものも
より深く反芻することがだいじだと思った次第です。