きょうは、あるところで句会がありまして、会がおわったあとの空間で夜コーヒーをのんできたのでしたが。
わたし自身が落ち込んでいたこともあると思うのですが、そもそもさそわれた時にも気が乗らなかったので遠慮したのでありました。
それでアフタートークだけきいていて、なんとなくその理由がわかったのです。
まあ、ざっくり言うと、俳句、良くも悪くも言葉遊びだということ、それ以上でも以下でもないんだなということに気づいてしまったのかも知れません。
皆が言うほど、いいものじゃないぞ。
そもそも大勢の人がいいということには決まって疑ってかかる、あまのじゃくのわたくしですから。
それって、切実な表現ではないんだな。
言い回しの妙ばかりが問題にされて、心理および作者がどう思ったかは問題にされない。
わたしには合わない世界だなと、帰宅して思うのですが
どうせ理解なんかされないからと、いま編集画面をにらみつけているところでありまして。
対して…べつに二項対立でどうこうするつもりはないんだけど…
現代詩は正反対の位相にある文芸です。
よくもわるくも、というよりは
ネガの側面ばかりが喧伝されている。
詩を書いています、と言ったら
ポエム呼ばわりして潰しにかかるような輩がいた。
30年前の学生連中に理解せよというのがむだなことだが
そういうことはめっきり減ったけど、無理解以前に無関心という現実は
依然として横たわっている。
別にいいんだよ。
地上波TVのネタにされて嗤いものにされたらおしまいだから。
…
そういえば現代詩手帖2023年8月号に書いている人がいたけど、
むかしむかし、某国営放送にナイトジャーナルって番組があった。
曜日ごと日替わりで登場する専門家…いまwikipediaみるとなかなか錚々たる面々のなかにあって、ひとり浮いているのが火曜日の「詩人」実は当時の放送協会職員だった男でね。
わたしが記憶していた回は「なぜ女性詩人は元気なのか」というテーマ
今思うとなんで?と失笑せざるを得ない。
別に男性詩人が全員だめだとかいうわけないだろ。だから皮相的な見方だとわかる人にはわかるのだけれど、この職員詩人、司会者に話を振られると得意になって話すのだが、どうも言葉が浮ついて聞こえる。地に足がついてなくて、借り物の知識だけひけらかしてる様子が、当時のばかで未熟な文学部の学生だったわたしにもみてとれた。
インタビューした伊藤比呂美にやりこめられてタジタジとしてた情けない感じも思い出した。
深夜帯に、筑紫さんの番組に太刀打ちなんか当然できなくて1年でおわったらしい。
さもありなんという気分ですね。
…
そもそも自身の個人詩誌で詩を発表していて、感想をきかせてくださる方はほんの数人。まあゼロよりははるかに良いですけど、打率だなんて雑駁なたとえを許してもらえるなら、惨敗しかしたことがない。三振の山。なんだけど。
うーむ これ以上負け惜しみを書き綴るのもかなしい。涙がにじんでくる。
もう寝ることにします。