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2015/05/31

じぶんを限定してみる

 ずっと以前から、わたしが感じてきた「生きにくさ」について思いをめぐらしてみる。

 いつからだろうか、じぶんがほかの誰かれとはちがう、ふつうではない、というぼんやりとした認識が湧いてきたのは。
 他人があたりまえのようにやっていることが、わたしにはうまくできないし、追いつこうとすればするほど、その落差は決定的にじぶんの位置を規定する。せまい枠のなかに囲いこまれるような息苦しさがあったり、じっさい家族からの抑圧もつよく、二度目の成人式(?)の年齢をすぎてなお、それはつづいている。
 学校での苛め、仲間はずれ、そうでなくても親しくつきあっている人間から、軽くみられているという、なんとも名状しがたい孤立感を、いまだに(まれにはなってきたにしても)おぼえるのはなぜなのか。
 あらゆることに首を突っ込んで、なにをやってもうまくいく。
 そういう人が、世のなかにはいるものである。
 そんなことはない、あなたにはあなたの個性がある、と言われる。そう言ってくれる人には感謝してもし切れないし、すなおに受け容れたらいいのだろうけれども、それが「できない人」であることをみとめることになるのかと思うと、いささかつらい。
 
 とはいえ、考えかたをかえたほうが、らくなこともたしかなのである。
 他人とおなじ土俵に立って、対等に振る舞うことは、世のなかの隅のほうでひっそり生きてきたわたしには「むり」ではなくて「似合わない」と思えてきた、ような気がする。
 世間的に「あの人はすごい」と言われている人って、そのためにほかのなにかだいじなこと、たとい微細でとるに足らないと思っていることがみえないか、みないようにしてはいないかと思うのだが。
 ひがみではないし、被害妄想的だと思われても困るのだが、人間の眼にかならずある盲点のようなものが、心のなかにもあるのではないかと。
 それは、わたし自身にとっても例外ではない。

 人づきあいにしても、おなじである。
 twitterやFB、さらにはLINEのような得体の知れないものまで、たくさんの人たちが平気で使っているけれど、なんだかたいへんそうだなあと思うし、怖いとも思ってしまうのは、いまどき嗤われるだけかも知れないけれども、むかし対人恐怖と隣り合わせだったことと地続きなので、こればかりはどうしようもない。
 じっさいに人と会うのは、いまでこそ好きだし、それと表裏一体の根源的なさびしさは誰にでもあると思うから、この点だけは人並みになったと言えるだろうか。しかし、すべての他人が価値観を共有しているわけではないし、陰でこっそり牙を研いでいる連中だっているのである。にこやかに近づいてきて、なにかのきっかけで豹変する場合だってないとは言えない。具体的に説明するわけにはいかないが、そんな現場に直面したことがこの一年間、なかったわけではないのだ。無条件に他人を信じることはできないと言ったら臆病にすぎるだろうか。現実に会うことのある人間にたいして、アクセスブロックをかけるようなことは容易にはできない。法的には可能でも、それが悪意をもっている人間にたいして絶対的な強制力をもつかは別問題である。
 
 書いているうちに、次々とネガティブな思考がうかんできたが、ほんとうはもっとあっさり、じぶんの壁みたいなものを越えて、らくな気持ちになりたかったのである。
 いつも詩のタイトルは最後に苦労して考えるのだけれど、この文章ははじめに「じぶんを限定してみる」という言葉が浮かんだのである。
 べつだんうしろ向きなことではないと思っている。なんだろうか、分をわきまえると言ったらいいのか、じぶんにほんとうに必要なことに思考を特化して、周縁部にある、どちらかといえば重要でないことからは手を引くことを考えたのだ。
 百人の友だちと薄いつきあいをするよりは、すくないけれどもだいじな人たちと良い関係を保つことのほうが、わたしには合っているように思うし、得手ではないたくさんのことを完璧にこなそうとむだな努力をしないほうがらくに決まっている。それができる(と思っている)人とじぶんは、ヒト科の同じ人種の同じ国籍の人間であるくらいしか共通点はないと客観視して、深くせまく、みずからの本分を掘り下げていく努力をしよう。そう考えたまでのことである。

2015/05/16

ことしも

 第4回福岡ポエイチの、閲覧室に『百葉』1-9号を、ことしもまた配置していただけることになりました。

 さいきんは、のろのろと書いたり書かなかったり、日々のことごとにかまけて生きておりますが、20年来、世間的にはふらふら、不安定な暮らしぶりにもかかわらず、詩を書きつづけたいという気もちはかわっていません。

 しかし、いまだ蓄積というものからとおく、ものを語るにしてもいつもなにかが足りない、欠落していると感じるのはあいかわらずだ。むかしほどではないにせよ人見知りで、体力と気力に欠け、いつも聞き役にまわることがおおい。損ばかりしていると思う。
 
 そんな人間でも、表現への意志はある。詩でも、しゃしんでも(へたな絵は、お休みしている。考えなしに着色していいのか、ためらっている)、あまりぱっとしないが、地道に、細く長く、臆病だけれどもつづけたい。

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