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2016/06/06

合評会という「場」

もう、先月のことになってしまいましたが。
5月28日の土曜日に、「詩について・対話篇」という合評会に参加すべく、
東京へ行ってまいりました。

朝8時に仙台を発って、13時に東京駅八重洲通りのバス停に降り立ちますと、
詩の会の主催者で、友人の古溝さんが待っていてくださいました。

一緒にお昼を食べに行った神保町で、三省堂書店の現代詩フェアのコーナーを見たり、
そのあと喫茶店で(あれだけ広く遠い都会で、お気に入りの店を見つけるのは至難だなと思いつつ)
そのフェアのブックリストについて語り合ったりして、
17時前に、会場の書肆逆光(八丁堀)に戻りました。

当日の参加者は6名。
それぞれ一篇ずつ提出した詩を、ひとつずつ黙読し、
しかるのちに、その作品について語り合う、という、あっさり言えばそういう会です。

こういう会に顔を出すのは、じつは、おしゃまは初めてでした。
もっと早く、こういった場に出てくるべきだったんじゃないかと、
投稿をやめて10年ちかくになるわたしは考えたのでした。

大げさかも知れませんが、
おしゃまにとっては、洗礼にちかい経験でした。
東北の地で、ずっとひとりで書いてきたわたしには、
個人詩誌をつくって、手渡していく行為がほとんど唯一の発表手段ですが、
その過程で、よんだ方からかえってくる反応は、
好意的なものか、無反応かのいずれか、それだけでした。
どちらかと言えば、後者のほうが多いわけだけれども、
なにも言われないので、どうしても前者の声が大きいように誤解してしまう。

今回、わたくしが提出した詩について、
「じぶんのために書いているか、読者のためか」という問いかけがありました。
みえない読者の存在を、わすれてしまっていたおしゃまの詩は、
ひとりよがりな面があったことを、痛感いたしました。

「書きたいことを書きたいように書けること、
 それは強みでもあり弱みでもある、
 ぎりぎりのところだと思う」という批評も受けました。
こういった言葉に鍛えられ、励まされてこそ、
現代の詩はまっすぐのびていくことができるのでしょう。

おしゃまには、それが新鮮でした。
とてもよい機会だったと、
わざわざこの会のためだけに、出掛けていって良かったと思います。

仙台でも、次の「ちいさな詩の朗読会」の前に、
わたくしなりの詩話会的なものをひらきたいと考えていますが、
まずは会のあり方、構成について熟慮すべきでしょう。
すぐというわけにはいきますまい。
もしかしたら年を越すかも知れませんが。

東京でお会いした、すばらしい詩人のみなさま、
ありがとうございました。

また機会をみつけて参加したいものです。



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