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2016/08/30

また、一行目から

世間を騒がせた迷走台風も、仙台附近には上陸せずに行ってしまったようです。
あまり大きな被害がないまま、消えてほしいものですが。

11号に載せるわたくしの詩は、3篇できました。
詩の推敲は、ノートに万年筆(Centropen RUBYという、チェコ製のプラスティックのもの)でああでもない、こうでもないとするのがここ数年の習慣ですが、それでも煮え切らないときは、wordで清書も兼ねてやってしまいます。今回も、そうでした。

脱稿して、またゼロから一行目を書きださなければいけない、ある意味自身をリセットして、心のアンテナを澄ませて臨む地点に戻ったわけですが、
ふと、メモ帳に書いたわずかな断片を目にして、「調べよりも意味が先に立っているなあ」と感じ、
すこしつまらない気もちになったのです。

おしゃまは、音楽もききますが、
それもきわめてマイナーな人のでも、心の琴線に触れればくりかえし愛聴するのですが、
そのおおくは、歌詞がなかったり、外国語の歌詞がついていたりします。
日本語の意味から解放されているのが、快いのです。

写真だったら、理屈よりも先に直観で好き嫌いはわかるものです。
批評的な言葉は、あとからついてきます。
最初から重い意味付けをされている写真は、正直きついです。
抽象、具象を問わず、自由な見かたを許容してくれる写真の方が、より印象は深くなると思います。

だのに、じぶんが書いているものにかんしては、正反対なのです。
ほんとうの意味で、自由闊達に書けているとはいいがたい。
なにか、社会的な位置のようなものに、縛られているのではないかとも考えます。
詩作だけでなく、創作するときには自身をちいさく限定せず、解放してやる必要があるのではないかと。

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