わたしは、疑いようもなく孤独な存在である。
だけれども、孤独が決定的な不幸だとは思っていない。
どういうかたちであれ、わたしという存在について
一定の理解をしてくれる、心の寛い人たちのことを尊く思っている。
わたしが恐れるのは、全的な無理解と無視だ。
そんな状況に置かれたら、すぐにでも死んでしまうにちがいない。
いままで、よく死なずにこの歳まで生きてきたものだと
過去を見渡せば思わずにはいられない。
それくらい脆弱な基盤の上で食いつないできた。
詩人黒田三郎は「幸せな人は詩を書くな」と言った(ことにされているようだが)けれども
黒田自身は内実はどうあれ、すきな人と結婚もし子供ももうけたわけであるが、
そのことを決して「幸せ」とは思っていなかったようなふしがある。
卒業論文で黒田のことに触れた関係で『黒田三郎著作集』全3冊を持っていたりするので
(卒業後あまりひもといていないのでうろ覚えなのだが)
詩集のタイトルにもなった「渇いた心」をもちつづけた人だったのだなと思い出す。
むろん、ひとりひとり詩のスタンスもスタイルも多様であるので
40年も前に亡くなった戦後詩人(死語ですね)の発言がすべてではないが
幸福感が絶対的に欠乏しているという意味で、わたしは黒田三郎に
20歳前後には感じなかった親近感というか、世代を超えた共通性を見いだすのである。
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孤独をおそれる者たちが真っ先に起こす行動は、徒党を組むことである。
路上で大声で馬鹿の馬鹿笑いをしながら横に広がってあるく連中を見たことがあると思う。
あれに遭遇すると虫酸が走る。
程度の違いこそあれ、孤独が怖い人間たちは寄り集まってなにかをするのが習性である。
以前にも書いたはずだが、「一人の手」という歌の歌詞が嫌いだ。
ひとりでなにもできないから徒党を組めばなにかできる、なにか言えるというのは
臆病者の発想である。
本来ならばなにかを為すのであればひとりではじめるべきであり、
なにか言いたいことがあれば賛同者がいなくても言うべきである。
吉本隆明が「たたかうならひとりでたたかうべきである」という意味の発言をしていたのが
(なさけないことに引用として抜粋されているのをよんだだけだが)
上の発想のベースになっていることは認める。
ちょっと想像してみるといい。
賛同者がちょっと集まっただけで支持を得られたと思って
平気で人権侵害、生存権の否定、その他の暴言を吐き散らす汚らしい連中のことを。
その手のヘイトスピーチが表現の自由の名のもとに放置されているため
わたしはtwitterが大嫌いで、友人のツイートですらまずよまないほどなのだが…
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だいぶ話しがずれたが
単独で生きている中年にとって、老後というのは重い。
「人生百年時代」などとほざいているのは終身雇用で定年を迎えて
生活に困らなくて贅沢をやめられない金満老人のお題目でしかない。
どこの政府が言い出したのか知らないが
詩人及び文学者がもっとも遠ざけるべき言葉の一例と思う。
わたしは百歳まで生きろというのは耐えられないから
できれば早め、あと十五年くらいでおいとまできればと冗談でなく思う。
生きてきてさんざん厭な思いもしたし、生活に余裕はないし
なんで生まれてきたのかいまだに恨めしい。
「ぼくは二十一世紀には生きたくない」と言って20世紀中に
がんで逝った田村隆一の去りぎわは出来過ぎなほど
みごとであった。
あの人も、戦時中に南洋でどんな地獄をみたのか…
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きょうはたまたま3月11日であるが
10年前の時点ですでに「幸福な」社会は破綻していたと思わないか。
敗戦後がまたかたちを変えてやってきたような
そんなふうに捉えても良かったのではないか。
憲法違反の戦争をできるように画策した人物は表向き去ったように見えるが
そのフォロワーはいまだに跋扈しているよ。
みえないクーデターがなんども起きていたのかも知れない。
そろそろ気づかないと。
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やはり言いたいことがすこしずれた。
気もちの整理がついていない。
孤独な人間を追い込むような、生きているのが楽しくて仕方ないような
人たちが正常であるかのように演出されているのが
いまのこの国のメンタリティだということを言いたかった。
弱者に優しい社会であるとは言えない。
わたしだってそうやって楽しく生きていたいのだが
心の底で、どうしても違和感をぬぐえないのである。
うまく言えていない気がするがこのへんで。