書店に置いてあったチラシに、詩が載っていた。
谷川俊太郎さんの書いたものらしい。
しばらく谷川さんの詩から遠ざかっていたので、なにげなく貰ってきたが、
なんといったらいいのか、その「チラ詩」なるものがそもそもつまらないのである。
嫉妬でも嫌味でもなく、ほんとにこれでいいんか? と思ってしまう。
裏面の口上もよんでみた。
有料のメールマガジンで谷川詩がよめるというふれこみ、その宣伝チラシだったわけだが、この谷川さんらしい(?)謙虚さ、あるいは自信なさそうな文章はいつもの(……?)こととしても、これよんで月額800円+税を払う人がいるの?と逆に心配になるというか。
結局、詩を「売る」側の切迫した事情(のように思える文面なのだが)のみ前面にあらわれていて、よみ手はたんにその対価を支払うだけ、の存在にみられているような気がしたのだ。
その意味で一方通行的文章にとどまっていて、売り込みとしては非常によわい。
べつに押し売りよりはましかもしれないけれど、やはりこちら側、読者のことより業界の事情ばかり気にしているんじゃないか。
まあ、谷川さんよりかは若い編集者の意向が大きいのだとしても、やはりこれでは宣伝にもなってないなと、わたしは白けてしまったわけ。
なんで詩をよもうと、最初に思ったのかな?と自身のことを顧みてみる。
なんだかよくわからないけれど、おもしろそうな予感があったと記憶する。
理屈や売り込みをされたからどうしたわけではなくて、よみたいから図書館や書店で手にとって、好きかってによんだり、ななめよみしたり、友だちにみせたりしてたんじゃなかったか。
だから、このチラシみたいな「大人の事情」で詩を買わされるのには、すくなくともわたしは抵抗がある。
詩に限らず、文学に限ったことでもなく、誰でもそうなんじゃないのかな。
2014/02/23
2014/02/12
ハーブティーのはなし
かえりにコーヒーをのんできて、容易にはねむれそうにないので、風呂上がりに(ちなみに、室温は10℃をすこし超えた程度)お湯を沸かして、ハーブティーをいれた。
LUPICIAの、SWEET DREAMS!という銘柄。
もう会えなくなってしまったけれど、以前お世話になったAさんからひと袋、いただいたものを、つづけて買ってのんでいる。
コーヒーもいいけれど、ハーブの香りもまた格別である。
ほかにはリンデン、パッションフラワーぐらいしかのんだことがないけれども。
いずれも、就寝前にのむと落ち着く。
LUPICIAの、SWEET DREAMS!という銘柄。
もう会えなくなってしまったけれど、以前お世話になったAさんからひと袋、いただいたものを、つづけて買ってのんでいる。
コーヒーもいいけれど、ハーブの香りもまた格別である。
ほかにはリンデン、パッションフラワーぐらいしかのんだことがないけれども。
いずれも、就寝前にのむと落ち着く。
錯覚
ここ二週間ほど、詩作は停滞している。
通勤時の電車内でのよみ書きも、あまり捗っているとはいいがたい。
というか、車内でしか本がよめないという状態が問題だと思う。
貧すれば鈍す、という言葉が適当かどうかわからないけれども、あたらしい詩集も買えていないし、まあ次々よみ飛ばすのもそれはそれでよくないことだが(自戒)、じっくりと腰を落ち着けて本をよむ態勢が、とれていないのだろう。
つかれてかえってきて、一応インターネットも閲覧して、わりとおそい時間帯まで起きているので、時間を割くことは可能なはずなのだが。
数年前までは、就寝前の読書の時間が貴重だった。
現在は、おそすぎるのと視力の低下が心配で、横になっての読書は控えている。
芳しくない話しばかりで、われながらなさけないけれど、わたし自身、じつはこういう凡庸な人間なのだから仕方がない。
しかし、こういうわたしが徒手空拳で、立派そうなことを自信に満ちてかいているひとたちと対峙するのであるならば、貧寒とした現実から言葉を拾っていくしかない。べつにそう限定する必要もないのだけれども、地べたで書かれた言葉が、力をもつに至らなくてもかすかに光りを放つような、そういう錯覚から詩を書きはじめたのではなかったか。
そうでなかったら、とっくに書くことをやめていたにちがいないのだ。
通勤時の電車内でのよみ書きも、あまり捗っているとはいいがたい。
というか、車内でしか本がよめないという状態が問題だと思う。
貧すれば鈍す、という言葉が適当かどうかわからないけれども、あたらしい詩集も買えていないし、まあ次々よみ飛ばすのもそれはそれでよくないことだが(自戒)、じっくりと腰を落ち着けて本をよむ態勢が、とれていないのだろう。
つかれてかえってきて、一応インターネットも閲覧して、わりとおそい時間帯まで起きているので、時間を割くことは可能なはずなのだが。
数年前までは、就寝前の読書の時間が貴重だった。
現在は、おそすぎるのと視力の低下が心配で、横になっての読書は控えている。
芳しくない話しばかりで、われながらなさけないけれど、わたし自身、じつはこういう凡庸な人間なのだから仕方がない。
しかし、こういうわたしが徒手空拳で、立派そうなことを自信に満ちてかいているひとたちと対峙するのであるならば、貧寒とした現実から言葉を拾っていくしかない。べつにそう限定する必要もないのだけれども、地べたで書かれた言葉が、力をもつに至らなくてもかすかに光りを放つような、そういう錯覚から詩を書きはじめたのではなかったか。
そうでなかったら、とっくに書くことをやめていたにちがいないのだ。
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