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2015/12/23

この国はもう滅んでいい

 わたしはもはや長生きしたくなくなってしまった。
 21世紀の日本も国際社会も、果たしてこれが20世紀のひとたちがほんとうに望んだような姿になっているとは、とても思えない。

 政治には、なにも期待できないので、おおくを語りたくないが、極右政治家が本気で戦争になってもいいと思っているなら、かれらを落選させなかった有権者に責任があるので、勝手にしろと言いたい。
 ただし、戦争にはわたしは協力しない。
 だれもがそうであることだけを期待している。
 
 経済のことには完全に門外漢なのだが、この国の経済を動かしていると思っているであろう中高年以上の男たちの表情がどうしても好きになれない。
 ほんとに経済的な豊かさだけが、日本を豊かにしたと考えているのだろうか。
 亡くなられた辻井喬さんは、どうやら自己も含めて、そのへんを徹底的に精査して、そうではないと思っていた、たぶん最後の経営者だったのではなかろうか。
 氏の回顧録をよんでみると、昔の意気盛んな、骨のある経済人たちがなん人も登場するが、そんな人間くさい、志のある人物は、もうどこにもいなくなった気がする。
 Japan as Number Oneなんて形骸化した旧い看板を、いまだに信じ切っている人たちばかりなんじゃないか。

 市井の人たちも、みな一様になにかに毒されているように思われる。
 歩道を暴走する自転車に当て逃げされたり、孫と思しき幼児と自転車で歩道を走ってきた中年の女に、すれ違いざまに「じゃまだ」と言われたこともある。
 これはわたしの個人的な不幸というよりは、ただただ無知にしてじぶん中心にしかものを考えられない、老いさらばえたかれやかの女の精神的な空洞に響きわたる悲惨さの顕われであろうが、まさかとは思うけれどもこんな人たちが、無言にして無意識的に多数派になりつつあることが、上に書いた政治的・経済的なことを差し置いて、もっともこの国を揺るがす滅びの前兆なのではなかろうか。

 いや、もうすでに滅亡の過程にあるのだと思える。

 善意の旗を振りかざしても、もはやとどめようのない崩壊がはじまっているのだ。
 たぶん、かれら精神的貧困層と一線を画する矜持があるかぎり、わたしの気は晴れないし、不幸の種も尽きないであろう。
 これは一部の人間が企てる戦争よりもこわい。
 個人の内面に沈潜していて、本人たちすらも意識していないからだ。

 こんな考えにとらわれている状態も、じつにつらいのである。
できれば、しばし紛れさせたいとは思うのだけれど。
 
 

2015/12/06

ちいさな詩の朗読会 第一章 終了しました

 11月28日の「ちいさな詩の朗読会 第一章」は、盛会のうちにぶじ終了しました。

 ご来場いただいたみなさま、一緒に会をひらいてくださった武田こうじさん、会場を提供してくださったシンガポールナイトのマスターとおかぴさんに、感謝申し上げます。

 そんなに緊張してはいなかったのですが、不安はありました。
 たのしんでいただけなかったら、どうしよう、と。
 幸い、杞憂におわりましたけれども。

 練習不足を痛感させられたのが、個人的な反省点です。

 第二部のために、自作、あるいはお好きな詩のテクストを持参していただいた方が思いのほかおおく、参加型の朗読会の性質も加えて良かったと思いました。
わたし自身のことよりも、そちらのほうが嬉しかったのです。

 第二章のことは、まだ白紙ですけれども、そのまえに、当日会がおわってから、武田さんと話していたことに、シンガポールナイトで、ときどき詩をよみあったり、話しをしたりする機会があってもいいよね、というのがありました。
 内輪での、それこそちいさな集まりになりそうですけれども、検討して実現出来たらいいなと思っております。

 では、当日のオープンマイクに参加してくださったみなさまがよまれた詩のタイトルを以下に記しておきます。
 作者名、タイトルの順です。

チアーヌさん 「クールな大介」
一方井亜稀さん 「遠景」
浜中純さん 「海を旅する」「ありがとう バイバイ」
赤松由美子さん 「無題」
大和田尚子さん 「いだく(懐く)」「夏の終りに」
佐倉リエさん 「街」
鈴木宏子さん 「つかめない街」「秋愁い」
加藤遥さん 「手」「ハロウィンの夜」
構造さん 「2015 Neo農協」
矢野竜広 「あたりまえのこと」(*はぶひろこさん朗読)
長田弘 「散歩」(*あべともこさん朗読)


 有難うございました。

2015/10/12

ちいさな詩の朗読会 第一章 ~詩誌百葉10号記念~


わたくしの個人詩誌『百葉』が、このたび10号目を発行するはこびとなりました。

この前の冬からあたためていた朗読会の企画、一回目はそれにちなんで、
はずかしながらも10冊の『百葉』からえらんだ詩を、武田こうじさんとともに読みます。

第二部はオープンマイクの朗読会となっております。
お好きな詩のテクストや、自作の詩をお持ちくだされば、参加していただけます。

11月28日の土曜日、16時に「純喫茶・星港夜」でお待ちしております。




ちいさな詩の朗読会 第一章 ~詩誌百葉10号記念~
20151128日(土)16:0017:30
会場:純喫茶・星港夜(シンガポールナイト)
仙台市青葉区上杉1-12-1 022-222-2926
第一部 出演:八森紅雄×武田こうじ
第二部 オープンマイクの朗読会 *参加自由・好きな詩、自作の詩などお持ちください
入場無料(ワンドリンクオーダーをお願いします)
お問い合わせ:shitomachi.machi.to.shi(あっと)gmail.com 

*()内を@に換えてください



2015/08/12

白井明大『生きようと生きるほうへ』

 白井明大さんの新詩集(5冊目になる)、『生きようと生きるほうへ』を、なんどとなくよみ返している。

 じつは、去る7月25日に、神保町でひらかれた出版記念の会に出向いてきた。
できたばかりのまあたらしい本を、ひと足さきに、会場で売っていただいたのである。

 こぢんまりとした集まりではあったけれども、和ろうそくに灯をともして、冷房もない木造の「平安工房」さんのショウルーム(だと思うけど……)のなかで、白井さんが詩を朗読し、あいまにそこに込められた思いを語る、かけがえのない時間だった。

 東日本大震災後に書かれたという、この本に収められた詩のかずかずには、そのあとにも相次いで発生した不幸なできごとが、抜きがたく翳を落としている。
 たぶん、あの日を境に激変した日本社会への、控えめにみえてじつは痛烈な批判を、ゆっくりと噛みくだくように、花の名前を調べ親しんでいく生活や、家族へのいままで以上に繊細なまなざしを通じて綴られていく。
 生きることのかけがえなさ、それは白井さんが従前から大切にしてきたことなのだけれど、なのにひとつひとつの命が、あっけなく軽んじられてしまうできごとをまのあたりにして、おおくの人がそうであったように、かれも衝撃を受け、深く傷つけられたのだろう。しばらくなにも書けなかったと、けれど書かなければ終わりだと、当日話していたようにおぼえている。
 
 詩集の後半におさめられている「生きる」という作品があるのだが、この詩の冒頭で
 
  なぜ逃げた と言われたことが何度かある

と詩人は告白する。東京からかれの母上の故郷である沖縄へ、幼い子のことを思った奥様に行きたいと言われて即断したことも書かれている。「なぜ逃げた」以下については、とおくにいながら、いつも親しくしてもらっているわたしもまったく知らなかったことで、少なからぬおどろきを感じたのだったが、この長い詩を通して、上に記した「生きることのかけがえなさ」が切々と、ある種捨て身といってもいいほどの真剣さで語られているといっていいかと思う。
 短絡的な発想で移住したのではないことは、よめばわかってもらえるだろう。そののちも葛藤がつづいたことで、かれも苦しんでいたことが明らかにされる。
 震災後のあれこれで露呈した、じぶんだけは責任を免れたいという保身だけで行動する醜い人たちの詭弁とは、正反対の生身の言葉がそこにある。
 好き嫌いはあるだろうけれども、いまという時代を、素のままで言葉だけをたよりに、誰もがよりよく生きることをねがう詩人の、控えめな声明であろうと感じる。
 これは、ないがしろにできない詩集である。

2015/07/20

絵の勉強、そして11月のこと


 まもなく梅雨が明けるのではと思われるほどに暑い三連休の中日に、わたしは街の古本屋へ行ってきた。
 といっても、昔ながらの古本屋は、仙台ではかぞえるほどにすくなくなってしまった。おしゃまが中学生のころには、東北大の片平キャンパスに通じる一番町一丁目附近に、ちょっとした古本屋街があったのだが、いま、そこで盛業中なのは二軒だけになってしまった。
 泉区にあった古本10万冊の店も、愛子にあった20万冊の店もとうに閉店して、太白区は鈎取にある店が、在庫量では市内最大だろうか。
 わたしが、この本(上の画像)をみつけてきたのは、広瀬川もほど近い西公園ちかくの古本屋である。
 この暑いのに、扇風機と除湿器しか回っていない店内をうろうろしていて、そういえば、おしゃまの絵の最初はペン画だったな、と思い出したのだった。
 じぶんで撮影した、4切のモノクロ写真をみながら、製図用のピグマというサインペンをときには3種使い分けて、みる人にはかならず、細かいですね、といわれるような(じっさいは、適当な細かさなのだけれど……)絵を2~3枚描いてから、水彩色鉛筆を手にしたわけなのだが。
 じつはもう半年くらいまえから、その色鉛筆画が描けなくなってしまった。なんだか、適当にデッサンをして、そこに適当に色をのせるだけのようなやり方に、疑問をもってしまったのだ。
 一から出直さないと、もうなにも描けなくなるんじゃなかろうかという気もちがどこかにあったのだろう。
 まだ、きのうからよみはじめたばかりである。

 11月に、朗読会をひらくことは、冬のうちから決めていた。
 それに向けて、百葉の10号に載せる詩も、書いていかなくてはならない。
 まだ、例によってのろのろな感じである、けれども。

 言い出したのはわたしなのだけれども、一緒にやってくださることになった、仙台の詩人、武田こうじさんに、じつはとても背中を押されていて、人見知りなおしゃまとしては、かなり勇気の要る計画になった。でも、20年ちかくもまえから活動されていて、経験も豊富な武田さんに、わたしにとっては過分とも思えるほどの好意的な言葉をかけていただいたのだから、期待に応えないわけにはいかない。

 日にちは、もう決まっている。11月28日の土曜日、純喫茶・星港夜にて開催です。


2015/05/31

じぶんを限定してみる

 ずっと以前から、わたしが感じてきた「生きにくさ」について思いをめぐらしてみる。

 いつからだろうか、じぶんがほかの誰かれとはちがう、ふつうではない、というぼんやりとした認識が湧いてきたのは。
 他人があたりまえのようにやっていることが、わたしにはうまくできないし、追いつこうとすればするほど、その落差は決定的にじぶんの位置を規定する。せまい枠のなかに囲いこまれるような息苦しさがあったり、じっさい家族からの抑圧もつよく、二度目の成人式(?)の年齢をすぎてなお、それはつづいている。
 学校での苛め、仲間はずれ、そうでなくても親しくつきあっている人間から、軽くみられているという、なんとも名状しがたい孤立感を、いまだに(まれにはなってきたにしても)おぼえるのはなぜなのか。
 あらゆることに首を突っ込んで、なにをやってもうまくいく。
 そういう人が、世のなかにはいるものである。
 そんなことはない、あなたにはあなたの個性がある、と言われる。そう言ってくれる人には感謝してもし切れないし、すなおに受け容れたらいいのだろうけれども、それが「できない人」であることをみとめることになるのかと思うと、いささかつらい。
 
 とはいえ、考えかたをかえたほうが、らくなこともたしかなのである。
 他人とおなじ土俵に立って、対等に振る舞うことは、世のなかの隅のほうでひっそり生きてきたわたしには「むり」ではなくて「似合わない」と思えてきた、ような気がする。
 世間的に「あの人はすごい」と言われている人って、そのためにほかのなにかだいじなこと、たとい微細でとるに足らないと思っていることがみえないか、みないようにしてはいないかと思うのだが。
 ひがみではないし、被害妄想的だと思われても困るのだが、人間の眼にかならずある盲点のようなものが、心のなかにもあるのではないかと。
 それは、わたし自身にとっても例外ではない。

 人づきあいにしても、おなじである。
 twitterやFB、さらにはLINEのような得体の知れないものまで、たくさんの人たちが平気で使っているけれど、なんだかたいへんそうだなあと思うし、怖いとも思ってしまうのは、いまどき嗤われるだけかも知れないけれども、むかし対人恐怖と隣り合わせだったことと地続きなので、こればかりはどうしようもない。
 じっさいに人と会うのは、いまでこそ好きだし、それと表裏一体の根源的なさびしさは誰にでもあると思うから、この点だけは人並みになったと言えるだろうか。しかし、すべての他人が価値観を共有しているわけではないし、陰でこっそり牙を研いでいる連中だっているのである。にこやかに近づいてきて、なにかのきっかけで豹変する場合だってないとは言えない。具体的に説明するわけにはいかないが、そんな現場に直面したことがこの一年間、なかったわけではないのだ。無条件に他人を信じることはできないと言ったら臆病にすぎるだろうか。現実に会うことのある人間にたいして、アクセスブロックをかけるようなことは容易にはできない。法的には可能でも、それが悪意をもっている人間にたいして絶対的な強制力をもつかは別問題である。
 
 書いているうちに、次々とネガティブな思考がうかんできたが、ほんとうはもっとあっさり、じぶんの壁みたいなものを越えて、らくな気持ちになりたかったのである。
 いつも詩のタイトルは最後に苦労して考えるのだけれど、この文章ははじめに「じぶんを限定してみる」という言葉が浮かんだのである。
 べつだんうしろ向きなことではないと思っている。なんだろうか、分をわきまえると言ったらいいのか、じぶんにほんとうに必要なことに思考を特化して、周縁部にある、どちらかといえば重要でないことからは手を引くことを考えたのだ。
 百人の友だちと薄いつきあいをするよりは、すくないけれどもだいじな人たちと良い関係を保つことのほうが、わたしには合っているように思うし、得手ではないたくさんのことを完璧にこなそうとむだな努力をしないほうがらくに決まっている。それができる(と思っている)人とじぶんは、ヒト科の同じ人種の同じ国籍の人間であるくらいしか共通点はないと客観視して、深くせまく、みずからの本分を掘り下げていく努力をしよう。そう考えたまでのことである。

2015/05/16

ことしも

 第4回福岡ポエイチの、閲覧室に『百葉』1-9号を、ことしもまた配置していただけることになりました。

 さいきんは、のろのろと書いたり書かなかったり、日々のことごとにかまけて生きておりますが、20年来、世間的にはふらふら、不安定な暮らしぶりにもかかわらず、詩を書きつづけたいという気もちはかわっていません。

 しかし、いまだ蓄積というものからとおく、ものを語るにしてもいつもなにかが足りない、欠落していると感じるのはあいかわらずだ。むかしほどではないにせよ人見知りで、体力と気力に欠け、いつも聞き役にまわることがおおい。損ばかりしていると思う。
 
 そんな人間でも、表現への意志はある。詩でも、しゃしんでも(へたな絵は、お休みしている。考えなしに着色していいのか、ためらっている)、あまりぱっとしないが、地道に、細く長く、臆病だけれどもつづけたい。

2015/03/17

最果タヒの「あとがき」

 最果タヒ『空が分裂する』(講談社)をよんだ。

 漫画家とのコラボによる、イラスト入りの詩の章は、なんだか集中できなくて、まだ深くよみ、掘り下げるに至っていないのが、われながらなさけない、けれども。

 この本の、二段組み四ページにもおよぶ、長いあとがきが、たいへん力と熱意にあふれた、いい文章なのである。正直なところ、書店に並んでいた第一詩集『グッドモーニング』をさきによんだほうが良かったかも知れないが、このあとがきに背中を押されて、こちらを手にとったのである。
 はなしが前後するけれど、最初によんだのは、『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)。三冊目の詩集になるだろうか、この著者の鋭敏で、既視感のない感覚と、それによって紡がれた詩のかずかずを、のめり込むようにしてよみおえた。たしかな手ごたえがあった。

 で、その長いあとがきのはなしに戻るけれども。
 なんで詩作品に沿って書かないのか、と言われると、すみません、とあたまを下げるしかない。
 首を垂れて、語っていきたい。

 
  
 (……)私は、感情がなんでもすばらしいなんて言わないけど、感情が美しく見えるのは「だれにもわからない」時だと思う。感情はただの乱れでしかないけど、その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ。

 
 このところ、環境の変化に馴染んでいけず、しばしば怒りやかなしみ、絶望感にとらわれがちだったわたし(おしゃま)にとって、「あとがき」のこの部分は身に沁みた。こんなに明快に、誰にも理解されない感情を、「乱れ」ている感情というものの一回性こそが美しいと言いきれるなんて。
 詩人のことばだと思う。たぶん、こんな文章を日本語によってあらわしたのは、最果さんがはじめてだろう。
 
 ふたたび抜粋して引用。

 誰にもわからない、わかってもらえない感情が、人の存在に唯一の意味をもたらしている。そして、だからこそ感情の結晶である作品が「わからない」と言われることは、ある種当然のことだった。

 私はコミュニケーションが苦手で、それは、他人が苦手なのではなくて、「気持ちを伝える」ということのために自分の中にある複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化して、既存の喜怒哀楽といった感情の定型に当てはめて行くことが不気味でたまらないからだった。

 「わかりあうことは、気持ちが悪い。」という、最果さんの独特の思考から生まれた詩を、わたしはけっして忌避したりしないし、むしろ以前にも書いたように、その人にしか書けない言葉であるがゆえに、そこに深いポエジを感じる。
 「複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化」して定型化して「解釈」しようとする、一般社会に於ける外部からの圧力に抗おうとする姿勢。これは、言葉ないしは詩の言語を否定し、解体し、腑分けしようとする、批判的勢力にたいしてきっぱりとNoを突きつける、じつはたいへん重要な詩の批評になりえていると言える。
 りりしく、頼もしい。すばらしい才能があらわれたものである。

2015/01/01

「百葉」9号、できました

 

   

  あけましておめでとうございます。

 ことしも、よろしくお願いいたします。

 さて、年末に、いつものお店に、できあがった「百葉」9号を配置してもらいました。

  純喫茶・星港夜(シンガポールナイト) 仙台市青葉区上杉
  書本・cafe Magellan(マゼラン) 仙台市青葉区春日町
  book cafe 火星の庭  仙台市青葉区本町

 いずれも数には限りがあります。ご了承ください。

  

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