わたしはもはや長生きしたくなくなってしまった。
21世紀の日本も国際社会も、果たしてこれが20世紀のひとたちがほんとうに望んだような姿になっているとは、とても思えない。
政治には、なにも期待できないので、おおくを語りたくないが、極右政治家が本気で戦争になってもいいと思っているなら、かれらを落選させなかった有権者に責任があるので、勝手にしろと言いたい。
ただし、戦争にはわたしは協力しない。
だれもがそうであることだけを期待している。
経済のことには完全に門外漢なのだが、この国の経済を動かしていると思っているであろう中高年以上の男たちの表情がどうしても好きになれない。
ほんとに経済的な豊かさだけが、日本を豊かにしたと考えているのだろうか。
亡くなられた辻井喬さんは、どうやら自己も含めて、そのへんを徹底的に精査して、そうではないと思っていた、たぶん最後の経営者だったのではなかろうか。
氏の回顧録をよんでみると、昔の意気盛んな、骨のある経済人たちがなん人も登場するが、そんな人間くさい、志のある人物は、もうどこにもいなくなった気がする。
Japan as Number Oneなんて形骸化した旧い看板を、いまだに信じ切っている人たちばかりなんじゃないか。
市井の人たちも、みな一様になにかに毒されているように思われる。
歩道を暴走する自転車に当て逃げされたり、孫と思しき幼児と自転車で歩道を走ってきた中年の女に、すれ違いざまに「じゃまだ」と言われたこともある。
これはわたしの個人的な不幸というよりは、ただただ無知にしてじぶん中心にしかものを考えられない、老いさらばえたかれやかの女の精神的な空洞に響きわたる悲惨さの顕われであろうが、まさかとは思うけれどもこんな人たちが、無言にして無意識的に多数派になりつつあることが、上に書いた政治的・経済的なことを差し置いて、もっともこの国を揺るがす滅びの前兆なのではなかろうか。
いや、もうすでに滅亡の過程にあるのだと思える。
善意の旗を振りかざしても、もはやとどめようのない崩壊がはじまっているのだ。
たぶん、かれら精神的貧困層と一線を画する矜持があるかぎり、わたしの気は晴れないし、不幸の種も尽きないであろう。
これは一部の人間が企てる戦争よりもこわい。
個人の内面に沈潜していて、本人たちすらも意識していないからだ。
こんな考えにとらわれている状態も、じつにつらいのである。
できれば、しばし紛れさせたいとは思うのだけれど。