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2015/10/12

ちいさな詩の朗読会 第一章 ~詩誌百葉10号記念~


わたくしの個人詩誌『百葉』が、このたび10号目を発行するはこびとなりました。

この前の冬からあたためていた朗読会の企画、一回目はそれにちなんで、
はずかしながらも10冊の『百葉』からえらんだ詩を、武田こうじさんとともに読みます。

第二部はオープンマイクの朗読会となっております。
お好きな詩のテクストや、自作の詩をお持ちくだされば、参加していただけます。

11月28日の土曜日、16時に「純喫茶・星港夜」でお待ちしております。




ちいさな詩の朗読会 第一章 ~詩誌百葉10号記念~
20151128日(土)16:0017:30
会場:純喫茶・星港夜(シンガポールナイト)
仙台市青葉区上杉1-12-1 022-222-2926
第一部 出演:八森紅雄×武田こうじ
第二部 オープンマイクの朗読会 *参加自由・好きな詩、自作の詩などお持ちください
入場無料(ワンドリンクオーダーをお願いします)
お問い合わせ:shitomachi.machi.to.shi(あっと)gmail.com 

*()内を@に換えてください



2015/08/12

白井明大『生きようと生きるほうへ』

 白井明大さんの新詩集(5冊目になる)、『生きようと生きるほうへ』を、なんどとなくよみ返している。

 じつは、去る7月25日に、神保町でひらかれた出版記念の会に出向いてきた。
できたばかりのまあたらしい本を、ひと足さきに、会場で売っていただいたのである。

 こぢんまりとした集まりではあったけれども、和ろうそくに灯をともして、冷房もない木造の「平安工房」さんのショウルーム(だと思うけど……)のなかで、白井さんが詩を朗読し、あいまにそこに込められた思いを語る、かけがえのない時間だった。

 東日本大震災後に書かれたという、この本に収められた詩のかずかずには、そのあとにも相次いで発生した不幸なできごとが、抜きがたく翳を落としている。
 たぶん、あの日を境に激変した日本社会への、控えめにみえてじつは痛烈な批判を、ゆっくりと噛みくだくように、花の名前を調べ親しんでいく生活や、家族へのいままで以上に繊細なまなざしを通じて綴られていく。
 生きることのかけがえなさ、それは白井さんが従前から大切にしてきたことなのだけれど、なのにひとつひとつの命が、あっけなく軽んじられてしまうできごとをまのあたりにして、おおくの人がそうであったように、かれも衝撃を受け、深く傷つけられたのだろう。しばらくなにも書けなかったと、けれど書かなければ終わりだと、当日話していたようにおぼえている。
 
 詩集の後半におさめられている「生きる」という作品があるのだが、この詩の冒頭で
 
  なぜ逃げた と言われたことが何度かある

と詩人は告白する。東京からかれの母上の故郷である沖縄へ、幼い子のことを思った奥様に行きたいと言われて即断したことも書かれている。「なぜ逃げた」以下については、とおくにいながら、いつも親しくしてもらっているわたしもまったく知らなかったことで、少なからぬおどろきを感じたのだったが、この長い詩を通して、上に記した「生きることのかけがえなさ」が切々と、ある種捨て身といってもいいほどの真剣さで語られているといっていいかと思う。
 短絡的な発想で移住したのではないことは、よめばわかってもらえるだろう。そののちも葛藤がつづいたことで、かれも苦しんでいたことが明らかにされる。
 震災後のあれこれで露呈した、じぶんだけは責任を免れたいという保身だけで行動する醜い人たちの詭弁とは、正反対の生身の言葉がそこにある。
 好き嫌いはあるだろうけれども、いまという時代を、素のままで言葉だけをたよりに、誰もがよりよく生きることをねがう詩人の、控えめな声明であろうと感じる。
 これは、ないがしろにできない詩集である。

2015/07/20

絵の勉強、そして11月のこと


 まもなく梅雨が明けるのではと思われるほどに暑い三連休の中日に、わたしは街の古本屋へ行ってきた。
 といっても、昔ながらの古本屋は、仙台ではかぞえるほどにすくなくなってしまった。おしゃまが中学生のころには、東北大の片平キャンパスに通じる一番町一丁目附近に、ちょっとした古本屋街があったのだが、いま、そこで盛業中なのは二軒だけになってしまった。
 泉区にあった古本10万冊の店も、愛子にあった20万冊の店もとうに閉店して、太白区は鈎取にある店が、在庫量では市内最大だろうか。
 わたしが、この本(上の画像)をみつけてきたのは、広瀬川もほど近い西公園ちかくの古本屋である。
 この暑いのに、扇風機と除湿器しか回っていない店内をうろうろしていて、そういえば、おしゃまの絵の最初はペン画だったな、と思い出したのだった。
 じぶんで撮影した、4切のモノクロ写真をみながら、製図用のピグマというサインペンをときには3種使い分けて、みる人にはかならず、細かいですね、といわれるような(じっさいは、適当な細かさなのだけれど……)絵を2~3枚描いてから、水彩色鉛筆を手にしたわけなのだが。
 じつはもう半年くらいまえから、その色鉛筆画が描けなくなってしまった。なんだか、適当にデッサンをして、そこに適当に色をのせるだけのようなやり方に、疑問をもってしまったのだ。
 一から出直さないと、もうなにも描けなくなるんじゃなかろうかという気もちがどこかにあったのだろう。
 まだ、きのうからよみはじめたばかりである。

 11月に、朗読会をひらくことは、冬のうちから決めていた。
 それに向けて、百葉の10号に載せる詩も、書いていかなくてはならない。
 まだ、例によってのろのろな感じである、けれども。

 言い出したのはわたしなのだけれども、一緒にやってくださることになった、仙台の詩人、武田こうじさんに、じつはとても背中を押されていて、人見知りなおしゃまとしては、かなり勇気の要る計画になった。でも、20年ちかくもまえから活動されていて、経験も豊富な武田さんに、わたしにとっては過分とも思えるほどの好意的な言葉をかけていただいたのだから、期待に応えないわけにはいかない。

 日にちは、もう決まっている。11月28日の土曜日、純喫茶・星港夜にて開催です。


2015/05/31

じぶんを限定してみる

 ずっと以前から、わたしが感じてきた「生きにくさ」について思いをめぐらしてみる。

 いつからだろうか、じぶんがほかの誰かれとはちがう、ふつうではない、というぼんやりとした認識が湧いてきたのは。
 他人があたりまえのようにやっていることが、わたしにはうまくできないし、追いつこうとすればするほど、その落差は決定的にじぶんの位置を規定する。せまい枠のなかに囲いこまれるような息苦しさがあったり、じっさい家族からの抑圧もつよく、二度目の成人式(?)の年齢をすぎてなお、それはつづいている。
 学校での苛め、仲間はずれ、そうでなくても親しくつきあっている人間から、軽くみられているという、なんとも名状しがたい孤立感を、いまだに(まれにはなってきたにしても)おぼえるのはなぜなのか。
 あらゆることに首を突っ込んで、なにをやってもうまくいく。
 そういう人が、世のなかにはいるものである。
 そんなことはない、あなたにはあなたの個性がある、と言われる。そう言ってくれる人には感謝してもし切れないし、すなおに受け容れたらいいのだろうけれども、それが「できない人」であることをみとめることになるのかと思うと、いささかつらい。
 
 とはいえ、考えかたをかえたほうが、らくなこともたしかなのである。
 他人とおなじ土俵に立って、対等に振る舞うことは、世のなかの隅のほうでひっそり生きてきたわたしには「むり」ではなくて「似合わない」と思えてきた、ような気がする。
 世間的に「あの人はすごい」と言われている人って、そのためにほかのなにかだいじなこと、たとい微細でとるに足らないと思っていることがみえないか、みないようにしてはいないかと思うのだが。
 ひがみではないし、被害妄想的だと思われても困るのだが、人間の眼にかならずある盲点のようなものが、心のなかにもあるのではないかと。
 それは、わたし自身にとっても例外ではない。

 人づきあいにしても、おなじである。
 twitterやFB、さらにはLINEのような得体の知れないものまで、たくさんの人たちが平気で使っているけれど、なんだかたいへんそうだなあと思うし、怖いとも思ってしまうのは、いまどき嗤われるだけかも知れないけれども、むかし対人恐怖と隣り合わせだったことと地続きなので、こればかりはどうしようもない。
 じっさいに人と会うのは、いまでこそ好きだし、それと表裏一体の根源的なさびしさは誰にでもあると思うから、この点だけは人並みになったと言えるだろうか。しかし、すべての他人が価値観を共有しているわけではないし、陰でこっそり牙を研いでいる連中だっているのである。にこやかに近づいてきて、なにかのきっかけで豹変する場合だってないとは言えない。具体的に説明するわけにはいかないが、そんな現場に直面したことがこの一年間、なかったわけではないのだ。無条件に他人を信じることはできないと言ったら臆病にすぎるだろうか。現実に会うことのある人間にたいして、アクセスブロックをかけるようなことは容易にはできない。法的には可能でも、それが悪意をもっている人間にたいして絶対的な強制力をもつかは別問題である。
 
 書いているうちに、次々とネガティブな思考がうかんできたが、ほんとうはもっとあっさり、じぶんの壁みたいなものを越えて、らくな気持ちになりたかったのである。
 いつも詩のタイトルは最後に苦労して考えるのだけれど、この文章ははじめに「じぶんを限定してみる」という言葉が浮かんだのである。
 べつだんうしろ向きなことではないと思っている。なんだろうか、分をわきまえると言ったらいいのか、じぶんにほんとうに必要なことに思考を特化して、周縁部にある、どちらかといえば重要でないことからは手を引くことを考えたのだ。
 百人の友だちと薄いつきあいをするよりは、すくないけれどもだいじな人たちと良い関係を保つことのほうが、わたしには合っているように思うし、得手ではないたくさんのことを完璧にこなそうとむだな努力をしないほうがらくに決まっている。それができる(と思っている)人とじぶんは、ヒト科の同じ人種の同じ国籍の人間であるくらいしか共通点はないと客観視して、深くせまく、みずからの本分を掘り下げていく努力をしよう。そう考えたまでのことである。

2015/05/16

ことしも

 第4回福岡ポエイチの、閲覧室に『百葉』1-9号を、ことしもまた配置していただけることになりました。

 さいきんは、のろのろと書いたり書かなかったり、日々のことごとにかまけて生きておりますが、20年来、世間的にはふらふら、不安定な暮らしぶりにもかかわらず、詩を書きつづけたいという気もちはかわっていません。

 しかし、いまだ蓄積というものからとおく、ものを語るにしてもいつもなにかが足りない、欠落していると感じるのはあいかわらずだ。むかしほどではないにせよ人見知りで、体力と気力に欠け、いつも聞き役にまわることがおおい。損ばかりしていると思う。
 
 そんな人間でも、表現への意志はある。詩でも、しゃしんでも(へたな絵は、お休みしている。考えなしに着色していいのか、ためらっている)、あまりぱっとしないが、地道に、細く長く、臆病だけれどもつづけたい。

2015/03/17

最果タヒの「あとがき」

 最果タヒ『空が分裂する』(講談社)をよんだ。

 漫画家とのコラボによる、イラスト入りの詩の章は、なんだか集中できなくて、まだ深くよみ、掘り下げるに至っていないのが、われながらなさけない、けれども。

 この本の、二段組み四ページにもおよぶ、長いあとがきが、たいへん力と熱意にあふれた、いい文章なのである。正直なところ、書店に並んでいた第一詩集『グッドモーニング』をさきによんだほうが良かったかも知れないが、このあとがきに背中を押されて、こちらを手にとったのである。
 はなしが前後するけれど、最初によんだのは、『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)。三冊目の詩集になるだろうか、この著者の鋭敏で、既視感のない感覚と、それによって紡がれた詩のかずかずを、のめり込むようにしてよみおえた。たしかな手ごたえがあった。

 で、その長いあとがきのはなしに戻るけれども。
 なんで詩作品に沿って書かないのか、と言われると、すみません、とあたまを下げるしかない。
 首を垂れて、語っていきたい。

 
  
 (……)私は、感情がなんでもすばらしいなんて言わないけど、感情が美しく見えるのは「だれにもわからない」時だと思う。感情はただの乱れでしかないけど、その人のそのときにしか生じなかった乱れは、さざなみみたいにきれいだ。

 
 このところ、環境の変化に馴染んでいけず、しばしば怒りやかなしみ、絶望感にとらわれがちだったわたし(おしゃま)にとって、「あとがき」のこの部分は身に沁みた。こんなに明快に、誰にも理解されない感情を、「乱れ」ている感情というものの一回性こそが美しいと言いきれるなんて。
 詩人のことばだと思う。たぶん、こんな文章を日本語によってあらわしたのは、最果さんがはじめてだろう。
 
 ふたたび抜粋して引用。

 誰にもわからない、わかってもらえない感情が、人の存在に唯一の意味をもたらしている。そして、だからこそ感情の結晶である作品が「わからない」と言われることは、ある種当然のことだった。

 私はコミュニケーションが苦手で、それは、他人が苦手なのではなくて、「気持ちを伝える」ということのために自分の中にある複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化して、既存の喜怒哀楽といった感情の定型に当てはめて行くことが不気味でたまらないからだった。

 「わかりあうことは、気持ちが悪い。」という、最果さんの独特の思考から生まれた詩を、わたしはけっして忌避したりしないし、むしろ以前にも書いたように、その人にしか書けない言葉であるがゆえに、そこに深いポエジを感じる。
 「複雑で曖昧な自分だけの感情を、単純化」して定型化して「解釈」しようとする、一般社会に於ける外部からの圧力に抗おうとする姿勢。これは、言葉ないしは詩の言語を否定し、解体し、腑分けしようとする、批判的勢力にたいしてきっぱりとNoを突きつける、じつはたいへん重要な詩の批評になりえていると言える。
 りりしく、頼もしい。すばらしい才能があらわれたものである。

2015/01/01

「百葉」9号、できました

 

   

  あけましておめでとうございます。

 ことしも、よろしくお願いいたします。

 さて、年末に、いつものお店に、できあがった「百葉」9号を配置してもらいました。

  純喫茶・星港夜(シンガポールナイト) 仙台市青葉区上杉
  書本・cafe Magellan(マゼラン) 仙台市青葉区春日町
  book cafe 火星の庭  仙台市青葉区本町

 いずれも数には限りがあります。ご了承ください。

  

2014/12/20

軽んじてはいけない

 詩とはなにか、とは、気の遠くなるほど昔から現在まで、くりかえし問われつづけてきた命題であるが、その答えも、もちろんすべてを閲することなどとうてい不可能だけれども、詩人・批評家の数だけあるのではないか。

 世間一般の、現代詩なんて知らないよ、という人たちにとっては、俗な流行歌の歌詞でさえも「詩」という括りのなかに含まれるかも知れない。
 あるいは、行分けされてさえいれば、詩にみえるという人もいるだろう。

 あまり深いとはいえない、ありきたりな感慨や感情の吐露にすぎないみじかい言葉が、行分けで書かれていれば、詩だと思ってしまう。
 現代詩に触れたことがない、平凡な(わたしも平凡だが)詩を書かない人にとっては、それだけでなにか、崇高なものに接した感じがするのだろう、けれど。

 そうした行分けの作文みたいな、詩のようなものをみかけることがあるけれども、そこに書かれている言葉は、誰でもちょっとあたまを捻ってみれば書けてしまうのではなかろうか。
 もうすこし細かく言うと、アノニマスな存在が書いたのではないかと思うほど、個性がない、独自性がない。
 そして、意味にあふれていて、教科書でよんだむかしの詩人の作品の表層だけをなぞっている。
だから、免疫のない人には、詩であると認識されがちである。
 
 しかし、わたしがよみたい詩は、それらとはまるでちがう。
 その人にしか書けない表現、その人にしか書けない言葉、その背景にあるその人独自の感受性と美意識こそが、現代の詩を詩たらしめている、重要な要素だとわたしは思うのだ。

 わたしはインテリではないので、そういうかんたんな言い方しかできないけれども、誰でも書ける表現は、共同体の言語であって、情報のキャリアとしての言語にすぎない。ふだんの会話ならなんらの支障もないが、文学の言語は、それらとは一線を画すべき性質のものである。
 と言うと、文学者ないしは詩人の特権性を強調しているように誤解されるかも知れない。
 わたしは、凡庸な人間なので、そういう知的官僚的な詩人の詩がにがてである。
 市井の生活者である人が、詩に惹かれ、詩作に打ち込む、その成果が平易な詩であろうが「難解」であろうが、価値としては同列に並べるべきであろうと思っている。
 けっきょく、それらの詩から、ただ一行であったとしても、読者にとってたいせつな言葉が見いだされたなら、詩人にとっての光栄であろうと思うのだ。
 詩人賞、詩集賞といったものもたしかに必要ではあるけれども、じぶんにしか書けないことに目を留めてくれる読者が少数でもいたとしたら、かれらの気づきを軽んじてはいけない。
 

2014/11/08

コトバトに寄稿

 「詩学の友」のサイト内にある「コトバト」に、詩人紹介の文章を寄稿しました。
 僭越ながら、清岡卓行という大家について、すきな作品に即して書かせていただきました。

 ときに思い入れが先行しているかも知れませんが、わたしが長年にわたって愛読してきた詩人の作品とその周辺に思いをめぐらせ、書いていく作業は、長い文章がにがて、というかへたなわたしにとってめずらしいことに、すこしの苦痛もなく進みました。
 
 じぶんの詩について語ることは、たいへんむつかしいのですが、敬愛の情をもちつづけてきた詩人についてならば、事実の正確さと読解力を求められるとはいえ、いろいろと思うところがありますので、書きたいことはたくさんありました。
 
 よんでいただけると嬉しいです。

http://shigaku.org/reviews/yatsumori_kureo01.html



2014/10/27

おしゃまの絵

 おしゃまの描いた絵や写真を、あらたにweb上にて公開することにしました。

 https://note.mu/osyama_poetry

 どうぞごらんになってくださいませ。

 *   *   *

 わたしはやはり、どうころんでもひとりがすきなのだろう。
 あまりひと前にでて、率先してなにかをするようなのは、どちらかというとにがてである。
 
 春以降、創作活動のほうは、ほとんど停滞していたけれども、
詩もぼちぼち再開しているし、しばらくわすれていた絵のほうも、写真(基本、フィルムで撮影している)も徐々に力を入れたいとおもっている。

 先だって、詩作ノートもあたらしくしたし。
 以前から愛用していた、コクヨのスリムB5というのが入手困難になったので、こんどは手ごろな判形で、表紙がドット柄(水玉。おしゃまは、ドット好きである)のものにした。

 あまり音楽にばかりかまけていないで、せっせと書こうとおもう。


2014/09/22

 先だって、職場で異動があり、仙台市内の店舗で勤務することとなって、いまに至っている。

 ずいぶん、この夏はくるしい思いをしたけれども、どうにか穏やかな秋を迎えられて、ほっとしているところだ。

 ことしは残暑もさほどではなく、夏バテというほどの状態でもないけれど、あいかわらず夜はつかれてダウンしてしまうことがおおい。

 部屋にかえってきてしまうと、ほんとうにひとりきりなので、外で誰かと話しをしたりするのが、いまもわたしにとってたのしく、だいじなひとときである。

 あまり友だちらしい人がおおいわけでもなく、孤独というものとのつきあいが長いことにかわりはないのだけれども。

 
 

2014/09/01

ひたすら、つらい季節

 日々の生活のなかで、疲弊し切って、ぼろぼろになりそうな、そんな夏が、なおもわたしのまわりでつづいている。

 語るに落ちた人びとのこと、言いたくても言えなかったわたし自身の意思、うわついた世間への憎悪、そして、それらにたいして無力で怠惰に過ぎたじぶん自身にたいする失望……どれも、現実に立ち向かういかなる力も持ち得なかった、わたしの貧しい言葉をやせ細らせ、消耗に至らしめ、肉体すらも圧し潰すにじゅうぶんな要素だった。

 そもそも、声を張りあげるのは、得意ではないし好きでもない。
 声高に、言うべきほどの信義も思想もないくせに、みずからの領分と利益だけは確保しようとする輩に対しても、無言という、抗議とも言えないほどの抵抗しかできず、肩身のせまい、生きにくいところにじぶんを追い込んできたと思う。
 かれらに対して、わたしの発する言葉など、まったく問題にならないだろう。
 聞く耳をもたない人間と、和解しようとすることは、断念せざるを得ない。

 わたしにとって、言葉は武器にはなり得ないし、身を守る鎧でもない。
 強弁しようとしても、まったくむだなことは、痛いほどわかっている。
 だから、議論や論争などといったものからは、逃げおおせるものなら極力逃げたいし、闘うに値するほどの敵が、言ってみれば好敵手とも呼べるような者は、周囲には存在しない。
 ただただ、言葉にならないような相手、宿敵しかいなかったということが、わたしにとっての最大の不幸なのだと言ったら、貧困や差別、戦禍のなかで生きている人たちに対して失礼だろうけれど。

 このひと月あまり、いやそれ以上前から、詩らしきものはひとつもできていない。
 げんなりするような日々のことは理由にしたくないけれども、じぶんのよわさ、甘さも含めなければならないけれども、それにしても、こんな生活がいつまでつづくのか。
 生きることを断念するほどのことではないし、じっさい生きているのだから、いきなり生命を絶たれるのは苦痛をともなうに決まっているのだが、すくなくとも平穏な心で働き、食べていけることだけは望みすぎても罰など当たらない、と思う。

 はやく秋がきてほしい。
 実りの秋をむかえるには、あまりに準備が足りないけれども。
 

2014/08/12

きょうの夕方、仕事がえりにバスの窓から、けいたいでんわで空を写している女性がみえた。
なんだろうとみあげると、虹がでていた。
バスが進むにつれて、とても大きな、地平から地平まで、半円形の虹であることがみえてきた。

こんな綺麗な虹をみるのは、なん年ぶりだろう。
むかし住んでいた部屋から、こんな虹をみて、詩の一節にかいたことがあったけれども。

車内の人たちの反応もおもしろかった。
誰かが、虹、といって空をみあげると、右側に座っていた乗客は誰もが上空を仰ぎみて、建物の蔭に隠れているときは、なにやら虹を探しているようでもあり、バスが坂をのぼって高台にでると、みごとなまでの虹のアーチにみとれているようでもあり。

ひとつ手前のバス停で下車して、わたしも虹を写真に収めようと思ったけれど、すでに虹の上部は雨雲にかくれていた。
まもなく、小雨がぱらついてきて、あかるい空のもと、わたしはすこしだけ嬉しいきもちになって、傘をさしてアパートまであるいていった。



2014/08/11

仙台ポエトリーフェス2014に行くの記

8月9・10日の二日間、仙台市のギャラリー ターンアラウンドで、「仙台ポエトリーフェス2014」が開催された。

わたしは、いち観客としてみに行ったのだけれど、各出演者の個性とともに、ふだんはよむばかりで、きき慣れない詩の言葉を存分に浴びて、かるい興奮とたのしさをおぼえた。

誌上でしか知らない詩人たちが、目のまえで詩を朗読し、詩について語り、つどう光景は、地方でひとりで細々とまずしい詩作をつづけるわたしにとって、非日常のものだった。
一日目の夕方あたりからの、会場内のカオスな雰囲気がさらに良かった。



二日目の座談会「明日、私がいなくなったならば」については、出演者4人の発言について開催前から興味をもっていた。
こんなことを言うと身も蓋もないけれど、わたしが死んだら、わたしの詩など、残ることはないだろうという自覚があったからである。
それぞれ、なん冊かの詩集をもっていて、執筆活動をつづけておられる方々なので、わたしのような発想はないのだろうなと思っていたが、高塚さんが「百年後に一篇だけでも残っていればいい」、
及川さんが「人類史は有限であるとすれば残らない」という意味のことをそれぞれ言われていたので、弱小詩人のわたしとしては、へんかも知れないが安堵した次第である。

個人的には、TOLTAの山田亮太さんと、プログラムのあいまにお話ができたのが嬉しかった。
昨年、仙台でのトルタバトンテンのイヴェントでお会いして、一年振りに再会できたわけだけれども、ほとんど無名の、しかも人見知りするわたしにも、しずかに話しかけてくださって、TOLTAの実験的なパフォーマンスの目指すところについて、説明していだだいたのが有難かった。
山田さんが朗読された「戦意昂揚詩」という作品についても、美しい言葉がときに危険な意味合いをもってくることを、またもしふたたび日本が戦争をはじめたとしたら、どういったことを書くかという、シミュレーションとして書かれた詩であると、おしえてくださった。

今回のフェスで、もっとも身に沁みて、心にのこる詩であった。
山田さん、そしてすべての出演者のみなさま、主催の武田さんと一方井さんに感謝したい。

2014/06/21

なんにもない

 きょう、ふいに思ったのだけれど、わたしの強みってなんだろうと。

 あたまは決して良くないし、肩書も地位もないし、持ち家も財産も車も、なんにも持ちあわせがない。
 ふつうだったら、完全に負け組だと思い、落ち込むような要素ばかりなのだが。

 あまのじゃくのせいかどうかも、じぶんながらよくわからないが、わたしの強み、それは「なんにもない」ことではないかと。
 幸い、仕事もあるし、友だちもむかしよりは増えているし、本もそこそこ持ってはいるし、ほかに趣味がないわけではない。
 けれども、なんといったらいいのか、わたしはからっぽなのだろう。
 以前、徒手空拳で、ということも書いたけれど、意味合いとしてはそれと似ているだろうか。

 詩を書くうえで、だいじなことというのをむかしの『詩学』誌上のコラムでよんだ記憶があるけれど、そこには「定住」は創作の敵、妨げになる、といった意味のことが書かれていた。
 詩をかいているだけで幸せな人こそ、詩人なんじゃないか、みたいなことも。

 まっさらなノートを前にして、無為の心境で、思いついたこと、かきたいことを綴っていく幸せ。
 それには、括弧つきの「思想」もいらないんじゃないかと言ったら、角が立つだろうか。
 なにか立派そうなことを、小難しく表現して煙に巻くような、そんな詩は、わたしは敬遠してしまう。
 もっとからっぽなことを、日常の言語とはちょっと位相のちがう言葉で書き記すのが、わたしにとっての詩作の姿勢なのである。

 

2014/06/01

福岡で

 

昨年にひきつづき、ことしも「福岡ポエイチ」の閲覧室にて、
百葉がよめます。
 3回目になるのですね。
 毎年盛況のようで、わたしも見に行きたいなあ……と思いつつ、ことしもとおくからみているばかりだけれど。

http://poeiti.yu-nagi.com/

 サイトの閲覧誌リストには、載ってないようですが、まちがいありません、1から8までぜんぶ配置されます。

 次の土日、6月7日・8日はぜひとも福岡ポエイチへ!

2014/05/10

また、色鉛筆を買うの記

 先月末の引越をはさんで、さまざまなごたごたがあり、まだあたらしい部屋は片づいていないけれども、ひとまず暮らし向きは落ち着いてきたと思う。

 きょうはかえりに、多賀城のコトリコーヒーに行って、自家焙煎のコーヒー豆を買ってくるつもりが、途中でBlogをみたら、なんと臨時休業の日なのだった。
 早い段階で気づいたので引きかえし、もう一軒、行きたかったお店に向かった。

 青葉通の画材店。
 ここで、ステッドラーの「子供向け」の水彩色鉛筆と、F3号のワトソン紙を買った。
 すでに、同社の水彩色鉛筆はもっていたのだが、12色にもの足りなさを感じていたのと、どの引っ越し荷物を開けても、それがみつからない(いずれ出てくるのだろうけど)ので、紙も残りわずかだったこともあり(それすらもみつからない!)、思いきって購入した次第。

 結構ワトソン紙というのも高いものなので、それなりの出費になった。
 これでまた、同工異曲な(いつもうつむいて帽子をかぶっている人物なので)絵をせっせと描くことになるだろう。

 詩作はといえば、あいかわらず牛の歩み、気が向いたときにノートをひらいて、ぼそぼそした言葉を書き記している。
 まだなんのひらめきもないし、光る一行みたいなものが書けたわけでもない。
 気長にいくしかないなと、みずからの凡庸さにあきれているところだ。
 

2014/04/13

春眠

 日々の暮らしと仕事づかれ、そして引越の準備にかまけて、さいきんはなかなか書くことがみつからないし、メモ帳になにか書きつけても、だめだな、と思ってしまう。

 朝の電車内では、福間健二さんの『青い家』をよみかえしている。
 昨年、「あるいは佐々木ユキ」の仙台上映会のまえに買って、集中的によんだ。
 なんどよんでも新鮮というか、つねにあたらしい発見、おどろきがあり、飽きることがない。
 優しさに満ちた視線と、前進しつづける固定化しない詩意識がともにある。

 休日、荷造りで部屋に籠もっているせいか、ときに茫としていることがある。
 片づけのへたなじぶんに、いらいらしたりあきれ果てたり。
 もう、半月したらここにはいないのだなと思うと、さびしさや感慨よりも期待、よりも目のまえの現実、そしてすっかり暖かくなった空気と光りにくるまれて、なおさら思考も作業も停滞ぎみになる。

 移転が終了したら、カフェにも行きたいし、本もよみたいだけ買うつもりだ。

2014/03/09

休日

  休日は、だいたい外に出かけて、誰か知っているひとたちと会って話しをするのが、なによりのたのしみである。

 部屋に籠もって、ひとりでなにかをするというのは、まだ当分寒さのつづきそうな昨今でも、あまり気がすすまない。

 詩のことば、たとえ断片であっても言葉が浮かぶのも、外出しているときのことがおおい。
 コーヒーをのみながら、メモ帳なりノートをひらいて、ああでもないこうでもないと、どんなにつまらないと思うようなことでも書きつける、そんな作業のくりかえしである。

 反面、一冊の本を集中的によみこむようなことは、できないでいる。
とくに、小説などは、あまり好きでもないせいかよむことが稀になっている。

 仕事の日でも、職場のひとたちと話したり、じぶんは喋らなくても会話をききながら働くというのはいい。
 とにかく、誰かと会っていないと、さびしくてやってられないんじゃないかと思ってしまう。

 以前は、ひとりの時間が好きだったのだけれど。
 
 

 いい人たちに囲まれているから、こんなふうに思えるのかも知れない。

 

2014/03/03

「百葉」8号を配布します


 2009年から細々とつくってきた個人詩誌「百葉」、このたび第8号ができたので、順次仙台市内の3つのお店(いつもお世話になっております!)にて配布いたします。

  純喫茶・星港夜(シンガポールナイト)仙台市青葉区上杉
     book cafe 火星の庭    仙台市青葉区本町
  書本&cafe magellan  仙台市青葉区春日町

 実際には、現在(きょうの夕食後から)製本作業をしております。
 今週中から来週にかけて、配本してまわる予定です。
 なお、いずれのお店も、部数に限りがあります。
 ご了承いただければと思います。
 

 
 



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